恥ずかしいことって何だろう?

理由を忘れた行動は、
やっぱりおかしなものです
常識を守ることも、
恥を知ることも
それ自体が目的ではありません
 
人によって違う常識や恥
大切なのはそれを知って、
自分の基準が絶対ではないことを知ること
それでもお互い気持ちよくいられるために、
相手のこころを気遣うこと
そこじゃないかって思うのです
 
 
 
常識や恥ってなんだろう?
考えることがあります
 
わたしの両親
戦中生まれの人たちですから、
常識や恥の意識について、
しっかりしつけられたと思います
 
常識に外れることをしてはいけない
~は恥ずかしいことだから、
してはいけない
 
常識を守って、
恥を知ること
日本人の美徳のひとつだと思います
ただそれも、
行き過ぎれば目的が見失われる
大切なものを捨てることになったりする
 
 
 
常識や恥って、
それぞれに基準があります
東京に出てきて、
いちばん驚いたのはそこでした
今まで両親から教えられた常識が、
全く通用しない人のなんと多いことか
 
そしてそのほとんどが、
間違ってるわけじゃない
生きてる現実の違いが、
常識や恥の違いに表れてるだけ
それは他人から見た自分だって、
変わらないんだって分かりました
 
 
 
こんなにもみんな違うのに、
常識や恥を知らないといけないの?
恥ずかしいことをしちゃいけないのはなぜ?
なんで常識から外れちゃいけないの?
ずっと考えて、
今はこう思っています
 
自分の行動が、
誰かの基準では常識外れで、
恥ずかしいものかもしれない
それを知った上で、
お互いが気持ちよくいられるため
他人に自分を押し付けないため
 
マナーが目指すのは相手への気遣い
常識や恥を知ることも、
そこから始まってるんじゃないかって
 
そう思います

 

 

人の言葉に色を与えるのは聞いた人なのよ

人の言葉に色を与えるのは聞いた人です
だから反応するのは、
聞いた人のこころの問題
誰かに恐れや不安を投影して噛みつくの
ちょっと変かなって思います
 
 
 
しばらく前
FBでお友達が投稿した内容で、
LGBTをバカにするなって反応があったそうです
 
お友達の投稿は、
「全身ピンクのスカートおじさんがいる!」
というもの
よっぽどびっくりしたんでしょう
わたしが見たってびっくりします笑
 
この投稿に対して、
LGBTガー
マイノリティを助けようとしてくれてる
その気持ちは嬉しいけど
 
ピンクのおじさん
クロスドレッサーかオートガイネフィリア?
クロスドレッサーは異性装で性を越える人
トランスヴェスタイトとも呼ばれます
オートガイネフィリアは自己女性化愛好症
パラフィリアの一種ですね
まぁ何であれ
 
言葉には文脈があります
人のこころもそう変わるわけじゃないから、
普段の言動を知ることだって大切
その人、
そんな風に他人を見下す人じゃないんですよね
普段から話していれば、
分かるはずなんだけど
 
 
 
思い込みがあると、
聞いた言葉には色が着けられます
LGBTはバカにされてる
そんな思い込みがそう聞かせたんでしょう
 
LGBTに限らず
マイノリティの権利
ちゃんとしてるとは言い難い部分、
まだまだありますよね
それに対して声を上げるのは、
当事者でもそうでない人でも、
大切なこと
 
でも過ぎた反応は、
やっぱり変だと思うのです
 
感じることや思うことは、
止められるものではありません
それが自分であれ他人であれ、
抑えるのは不自然なこと
 
でも感じたことや思ったこと、
そのまま行動にしちゃうのもマズいから
 
言いたくなったことはすぐに言わないで
少し寝かせてみる
他の人が言っても、
同じように感じるのか?
その言葉の前後の流れは?
自分でフィルターをかけちゃってないか?
 
本当に、
言わなくてはならないのか?

劇薬に慣れてはいけない

痛みは原動力になります
抵抗しないとつぶれちゃうから、
抗うことが力になる
 
でも周りは敵じゃない
いつまでもそのままでいると、
周りが疲れてしまう
 
痛みの記憶は、
劇薬なのです
強い薬に慣れてしまうと、
変わってしまったことに気付けなくなる
 
人の中には、
もっと柔らかいものがあります
劇薬に頼らなくても、
人には強さがあるから
 
前のあなたに会いたいなって、
ちょっと思うのです
 
 
 

 

 

持たせない選択はキライだ

簡単なことも、
触らなければ身体では分かりません
見て、
触れて、
持つことで生じる力と責任を知る
 
ただ知ることよりも、
それが大切なんだって思います
 
 
 
わたしナイフが好きです
炎から生まれる刃の冷たさ
鎚目やダマスカス鋼の紋様、
異なる素材がひとつにまとめられる美しさ
用途の違いも、
面白い表情を見せてくれます
 
最初にこの手のものに触れたのは、
小学校で肥後守の使い方を教わったとき
鉛筆の削り方を通して、
刃物の扱い方に慣れました  
 
わたしたちより少し下の学年では
刃のすごく小さいカッターナイフに変わってしまったみたい
「触れさせない」
「蓋をする」
そんな方向に移り変わった頃なのでしょう
 
 
 
ナイフでの殺傷事件が起きたりして、
道具として魅力のあるものが、
冷たい目で見られしまう
ナイフを持つ人も危険視される
悲しいなって思います
 
簡単に手に入る環境が事件につながるのも、
アメリカを見ていると分かるけど
 
道具に善悪はありませんよね
使う人のこころが全てを決める
関わる事柄全体が問題視されるのは、
やっぱりおかしいと思います
 
 
 
伝えるべきは「いかに使うか?」で、
捨て去ることじゃないと思うのです
刃物で傷付けば、
血が出て痛みを感じる
痛みの記憶は、
他人への共感につながる
 
刃の輝きは、
確かに力も感じさせます
妖刀の逸話を聞くまでもなく、
人を狂わせる可能性はあるでしょう
 
でも人のこころは、
狂気に抗う強さもあるのです
取り締まるのも大切だけど、
それだけじゃ片手落ち
 
力に伴う責任を伝えるのも、
同じように大切なんだって
 
そう思うのです
 
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人は信じてもらえた姿に近付いてゆく

相手に解決する力はあるのか?
信じるのは時に忍耐が必要だけれど
 
人生で培った経験は、
軽いものではありません
狭い視点に囚われなければ、
必ず解決の糸口は見つかるもの
  
人は信じてもらえた姿に近付いてゆきます
目の前の人
どんな人でいてほしいでしょう?
その人の何を信じるか
それってすごく大切なのです
 
 
 
助言であれ忠告であれ、
言いたい人は相手を信じていません
「このままでは出来ない
言わないと分からない
自分は正しい
だから言わなければならない」
 
これってその人が言いたいだけで、
本当に必要か疑問を感じることが多い
 
「その人なら出来る
多くを言わなくても大丈夫
自分の思う解決策は絶対じゃないし、
相手には自分で解決する力がある」
そう信じるなら、
任せることが出来るもの
 
 
 
行き違いへの対応も同じです
お互いの違いや、
それぞれにある正しさを理解できる
そう相手を信じられるから、
溝を乗り越えることができる
 
相手に理解する力がないと思うことは、
可能性を信じないこと
そこに許す余地はありません
 
 
 
人は長く生きていて、
経験と生活から知恵を身につけています
今までの経験とリンクする部分はないのか?
対処の仕方で流用できることはないか?
そう考えることが出来れば、
経験全てがリソースになる
 
やり方に口をはさんだり、
許さなかったり
相手を信じないということは、
その経験を信じないことです
 
もちろん得手不得手もあるし、
力量不足で手に余ることもある
そんなときは、
アドバイスが有効な場合もあるでしょう
 
でも基本的には、
解決できない問題は少ないはずなのです
人生で培った経験は、
軽いはずないのですから
 
 
 
信じてもらえた人が花開くように、
信じてもらえない人は、
その通りの姿になってゆきます
人の姿はその人だけが決めるのではなく、
周りも影響を与えるもの
 
目の前の人に、
どんな姿でいてほしいか
そのために何を信じるか
言葉を届ける時に大切なのは、
それを忘れないことじゃないかって
 
そう思うのです

いちばん魅力的な自分でいよう

人がいちばん魅力的に見えるのは、
好きなことをしているときです
こころと違う方向を見ていると、
輝きは鈍ってしまう
 
どんな選択をしてもいいけど、
可能な限り魅力的な自分でいましょう
何より大切なのは、
嫌いな自分は選ばないこと
投げてしまわないこと
 
これが幸せを呼んでくれるって、
そう思います
 
 
 
 
今は自分にとってどんな時でしょう?
耐えて芽吹きに備える時か、
天に向けて花開く時か
 
下を向くか
上を向くか
掴むか
見送るか
 
どんなことを選んでもいい
でも1つ言えることは、
嫌な自分は選ばない方がいいということ
 
 
 
好きなことをしていると、
力は自然と湧き上がってきます
していることは苦にならないし、
テンションも上がる
 
そんな自分を好きでいられるし、
魅力も高めてくれる
生き生きとしていられますからね
 
魅力的な人は、
輝く瞳の人が好きなのです
楽しいところには楽しいことが、
自分から集まってくる
 
嫌な自分を選んでいたら?
逆のことが起こります
つまんないですよね
 
 
 
生活のため
誰かのため
いろんな理由で、
したくないことを選ばないといけない
そんなこともあるけど
 
せめて自分は、
嫌いになっちゃいけない
好きな自分でいたいって、
そう思ってます
 
 
 
 

ありがとうの時間

ありがとう
文字で書くと、
思いはかたちを与えられます
目を見てことばにすれば、
こころとこころが触れる
 
ありがとうを伝える
簡単で、
難しいけど
とっても大切なことなのです
 
 
 
大切な人とお話したくて、
お食事に行きました
今がある幸せへのありがとう
そんなことを、
直接言葉で伝えたかったから
 
わたしはおしゃべりな方だと思います
でもこの人の前だと、
なんだかうまくいかない
話したいことはいっぱいあるのに、
いつも気が付くと半分も話せてない
 
メッセージでは何度も伝えていました
でもそれは、
やっぱり違うと思うのです
大切なことは、
目を見て話さなきゃ伝わらない
本当にこころを届けるには、
それしかないと思うから
 
 
 
連れていってあげたかったお店に行って、
ゆっくり時間を過ごして
 
言葉もたどたどしいし、
洗練された雰囲気もないわたし
やっぱり言いたいことの半分も伝えられなかったけど笑
 
感じている嬉しさは、
少し分かってもらえたかな
 
ありがとう
 
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