嫌われても構わない人になろう

「嫌われたくない人」
嫌われないけど好かれることもない
残酷なようだけど、
思い通りの現実

素直な自分でいることは、
人がいちばん力を発揮できるときです
余計な力は抜いて、
嫌われても構わない気概でいく
大切なことなんだって、
そう思っています

 

 

わたしはずっと、
「嫌われたくない人」でした
いい人になることで居場所を得て、
嫌われないように振る舞って

それは自分がなくなるだけだって分かって、
今は「嫌われても構わない人」に変えてます

自然体の自分は気楽なものです
笑いたい時に笑って、
嫌なことには嫌と言える
自分が自分でいられる
たぶんこの状態の方が力も発揮できるし、
世界も広がるんですよね

周りの友達も、
そんな自分が好きって人が残ってくれる
気に入らなきゃ離れていくだけ
自分を削って付き合いを続ける?
そんな余裕は人生にはありませんから、
お互い自然なことだと思います

しばらく前に、
ずーっと素直に接することの出来なかった人に自分のこと話して
残っていた「嫌われたくない人」、
大部分捨てることができたと思います
素直な自分
なんて楽なのかと感じます

 

 

自分を変えるって、
思い切りがいるものです
どんな変化もストレスだから、
人は現実を変えたくない生き物
今の現実にいれば、
生きていけるのは分かってますから

でもそこを越えて歩き出すと、
少しずつ見える景色は変わってくる
いっぺんに変えなくてもいい
ほんの少し
それを何週間か続けてみると、
自分が変わったのを実感できるはずです

自分を解放して、
正直な自分に合わせてゆく
大切なことなんだって、
そう感じています


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挑戦は小分けすれば大したことない

人への決めつけは可能性を狭めます
可能性を低く見積もって成長を阻むことは、
高く見積もって過信するのと同じ
誰にも益のないことです
 
課題は小さく分けて、
出来るかどうかを考える
人の実力も適切に見てあげる
どちらも大切なのだと思います
 
 
 
後輩にお仕事を伝えています
もう入社して一年も過ぎ、
技術的には問題のないレベル
でもなぜか安定しない時があって、
やり直しが発生したりする
 
あんまり突き返されてばかりでは、
本人の自信にも影響が出てしまいます
そこで話してみて気付いたこと
やり直しが発生するときは、
完成のイメージがはっきりしていない
 
たどり着くイメージがはっきりしなければ、
ピントも合わないわけです
それじゃ問題になる時とそうでない時
その違いは?
突き詰めていくと、
難易度を過大評価している時、
完成がイメージ出来ないと分かりました
 
 
 
わたしのお仕事は、
個別性の強いものです
それぞれはの仕事を見ると、
『やったことないもの』ばかり
 
でもそれは外側から見た印象で、
細分化しちゃえばなんてことはない
お仕事の流れで内容を区切ってしまえば、
習得した技術の寄せ集めで対応できる
各個撃破は簡単なんですよね
 
経験がない
そう思う先入観から、
お仕事の外面に囚われていたのでしょう
話したことで、
きっと判断も変わると思います
 
 
 
自分に置き換えてみると、
後輩の錯覚は充分理解できます
なんだか難しそうな印象に負けて、
挑戦を諦めてしまった
そんな経験はありますから
 
もったいないお話ですよね
充分対応できることなのに、
先入観で自分の可能性を狭めてしまう
 
きっとこれは、
どんなことにも当てはまるのだと思います
手強そうに見えることは、
部分に分けて考えてみる
小さな部分ですら、
自分には対応出来ないのか?
 
難易度の見積もりは、
小さく分ければズレを小さくできます
そこに対しての自分の実力も、
適切に見られるようになる
 
過大評価も過小評価も、
成長の芽を摘んでしまうと思います
目の前のことの難しさも、
人の実力も
適切に見てあげるのが大切
そう思うのです
 
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信じることって、どんなことだろう?

信じること
どういうことなのかなって、
よく考えてきました
わたしは人を信じるのが難しい
そう思う部分があるからです
 
原因は分かりません
いじめられた経験
人が離れる恐怖から、
他人を遮断してしまう癖
そんなことの影響かもしれないし、
全く関係ないかもしれない
 
いずれにしても、
他人を信じないことで自分を守ってきた
そんな印象があります
 
他人を信じない人は、
信じてもらえることもないでしょう
周りに対して冷たさを感じる
今までそんなこともあったけど
きっと冷たいのはわたしだったと思います
 
 
 
『新しい行動』を取り入れる
そんなことを意識する中で、
大切な人に自分の弱さを話しました
 
相手に自分を委ねる
ダメでどうしようもない自分
怖くて仕方なかったけど話してみて
反応は意外とあっさり
その人が何を考えたのかは分からないけど、
変わらず接してくれている
 
わたしは自分の弱さをさらすことで、
嫌われても仕方ないと思っていました
それでも素の自分をさらしたことで、
壁がなくなったのを感じます
 
たぶんその壁は、
わたし自身が作り出していたもの
もう隠すこともないから、
カッコ付けることも出来ません
 
自分を隠して嘘をつくのが嫌
はじめはそんなところから考えたけど
考えてみるとこの時、
相手を信じる決心をしたのだと思います
 
 
 
自分の姿を見るのって、
自分でも怖いものですよね
それを大切な人に見せて、
嫌われちゃったら?
立ち直るのも難しいかもしれません
それでも相手の判断と、
その選択をした自分に全てを委ねた
 
相手が自分を信じるのが先じゃなくて、
まず自分が行動する
そこからやってみて、
自分が信じることの意味が、
少し見えたように思います
 
信じること
それでもまだよく分からないけど
これからも考えることを止めずに、
自分からやってみよう
そう思っています
 
 

空を観て思うこと

目に映っているだけでは、
見ていることにはなりません
 
心に留め、
こちらから会いに行く
意識を向ける
それが観ることなんだって
そう思います
 
 
 
秋がやって来て、
空気が澄んできましたね
晴れた空は抜けるように高くて、
つい上ばかり見ている自分に気付きます
 
身近に美しい空を撮る人がいます
わたしはその人の広い空が好きで、
自分もそんな風に撮れたらいいなと、
いつも思っていました
 
ある時その人から写真を教わる機会があり、
その目を追っているうち、
気付くことがありました
 
それまでわたしの上にあったのは、
概念としての『空』
わたしは空を見ていなかったし、
見ようともしていませんでした
きれいに撮れるわけないんですよね
 
 
 
その人は、
わたしに観ることを教えてくれました
そこに違いがあること
色、
深さ、
広さ、
一つとして同じ空はないこと
 
観るという視点を獲得すると、
それが全てに通ずることが分かります
人も物も自然も
同じものはないのです
必ず違いがあって、
そこに美しさが隠れている
 
違いにこそ広がりの種は隠れているのに、
たくさんのことを見逃している
そのことにも気付くことが出来ました
 
 
 
知ることは観ることから、
目の前にあることとの対話から、
始まるのだと思います
 
どんな時も観ることは大切
そう思うのです
 
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相手にあれこれ言いたくなるときは自分を見てみよう

人にあれこれ言いたいのは、
軽く見られて悲しいから?
相手の違いが許せないから?
 
でもそれはきっと相手も同じこと
違いに腹を立てて、
こころにトゲを届け合ってもつまらない
 
自分はどうなのか?
自分を棚に上げて、
言いたいことを投げつけていないか?
気にしておくのは大切だって
そう思います
 
 
 
不愉快で人にあれこれ言いたくなる
けっこうあります
ああしたらいいのに
なんでこうしないのか
 
若い頃を思い出すと、
世の中バカばっか
そんな風に考えたこともあります
恥ずかしいですね(^_^;)
 
困ったことに、
思うことに変な理屈は通っています
だから他人に対して言いたくもなるし、
そこに疑問も持ちませんでした
 
 
 
でも
いろいろ痛い目にあって分かりました
思いは全部自分に返るんですよね
「バカばっか」も、
「何となくこの人こう見えるな」も、
「こうすればいいのに」も、
まず自分がそうであることばかり
 
だとすると、
相手も自分に対して同じように感じてる?
相手の気になる部分は自分がそうさせてる?
 
お互いの思いと行動の関係を考えると、
可能性は高そうだな
そう思うようになったら、
自分の見方や行動が少し変わりました
 
 
 
人にあれこれ言いたくなる、
ここはそう簡単に変わってくれないけど
思った後で立ち止まれるようになりました
「あれ?これって自分どうなん?」
そう思えるようになった
 
人にあれこれ言いたくなるのって、
軽んじられたように感じて悲しいとか、
ガマンしてることをガマンしない人が目障りとか、
そんなことへの怒りが原因だったりします
 
怒りの持続時間は短いから、
最初の「イラッ」をどう乗り切るかが大切
ここで「自分どうなん?」は、
かなり効果があります
そして実際その通りだったりしますからね笑
相手を軽んじてるのは誰か?
ガマンの基準はみんな同じなのか?
 
 
 
相手も自分と同じ、
こころを持つ存在です
もちろん個々の違いはあるけど、
悲しいことつらいことが嫌で、
嬉しいこと幸せなことが好きなのは、
きっと変わらない
 
伝えるなら、
イラッとしてトゲを刺してまわるより、
笑顔をあげたいのです
だから「自分どうなん?」は、
とっても大切だと思っています
 
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相手が大切なら嫌なことは嫌と言おう

嫌と言わないことは、
相手の時間を浪費させます
時の刻みは命の刻み
失われたら二度と返ることのない、
大切なものです
 
お互いの命の時を大切にするために、
相手を信じて嫌と言うこと
大切なのだと思います
 
 
 
 
嫌と言うのが苦手です
そうしたら嫌われてしまいそうで、
怖かったから
 
でも考えてみると、
嫌と言える人もいます
そうしても関係が崩れない信頼のある人か、
関係が崩れてもいい人
 
真ん中の大部分は、
なんとなく嫌と言えない人
適当にお茶を濁して作り笑い
 
 
 
嫌と言わないことは、
相手を宙ぶらりんにします
その状態で、
相手にいったい何が出来るでしょう?
 
自分の時間と相手の時間
わたしは考えが甘かったと思います
自分の時間が大切なように、
相手の時間も大切なもの
失われたら、
二度と返ることのないものです
 
宙ぶらりんを止めることで、
お互いの時間は生きたものになります
その時出来ることに集中するために、
宙ぶらりんはない方がいいですよね
 
 
 
今まで自分が嫌われるの怖さに、
わたしはどれほど人の時間を無駄にしてきたんだろう?
考えると怖くなります
時の刻みは命の刻み
命を無為に捨てていたのと同じだから
 
変に期待を持たせるのではなく、
出来ないことは「出来ない」でいい
それで嫌われるなら、
それはわたしを分かってくれない人でしょう
 
人を信じること
今のわたしの課題です
相手を信じて、
嫌と言える自分になる
そう思っています
 
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頼ることは良いのか悪いのか

頼ること
良いと言われることも、
悪いと言われることもあります
 
たぶんその違いは些細なもの
それがないと生きられない依存になるか、
頼らないでいられるようになるか
答えはこころの向かうベクトルにある
そう思います
 
 
 
わたしには、
何かに頼りたがるクセがあります
人を信じるのが難しくて、
代わりに何かに頼ろうとする
 
過去の自分を思うと、
モノであったり人であったり
いろんなことを思い出します
 
一般に、
頼ることは良くないことと捉えられがち
アディクション(依存症)なんてのもありますからね
仕方ない部分もあるでしょう
 
でも考えてみると、
頼ることは悪いことばかりではない
そうも思います
何かに頼れるということは、
危機的に追い詰められる、
そんな状況を少なくするからです
 
 
 
それじゃ何が違うのか?
 
人が1人で出来ることには限界があります
助けになるものが何一つ存在しない
そんな孤立無縁の状態は、
こころを追い詰めます
 
反対に支えてくれる何かがある
それを知ることが、
どれほどこころを救うかしれません
頼るものがあることで、
つらい現実に耐えることができる
そんな経験は誰にもあると思います
 
頼れる何かがあること自体は、
悪いことではありません
自分の経験でよくなかったと思うのは、
頼るあまり立つことを忘れてしまっていた、
そんな印象のあることです
 
 
 
つらさから目を背けるために、
頼る対象だけを見ているなら
その状況に居続けることで、
つらさが無くなることはありません
だから頼り続け、
依存することにもなる
悪循環です
 
頼る対象が人生を変わりに生きてくれる?
そんなこと絶対にないんですよね
自分の人生と頼る先にあるものは、
同じにはなりません
お酒やギャンブル、
何かや誰かを好きになることも
 
頼ってよかったと思う関係では、
対象を自分の外に見ていました
そんな場所があることで安心できるから、
1人で歩き出す勇気が出る
かえって頼ることもなくなる
そんな関係です
 
 
 
「それなしでは生きられない」って、
自分を見失ってますよね
誰も人生を生きてはくれない
人生は自分だけのものです
 
頼る先があることで、
ますます依存心を強めるなら、
そこは離れることを考えた方がいい
 
頼る先があることで、
かえって1人で歩く勇気が出せるなら、
それはそのままでもいい
 
分かれ目はそこじゃないかって、
わたしはそう思っています
 
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