誰かを勇気付けられる自分であるように

自分の態度を変えるか、
変えないか
状況に応じて態度を変えるのにも、
いろんな姿があるから

ただ逃げる自分ではなくて、
信じる方向を持っていこう
そう思います

 


勇気付けられる人

話していると、
勇気付けられる人がいます
その人の見ているものや、
自然と紡がれる言葉が、
こちらも未来を見ることを促してくれる

そういう人を見ていると、
ああ自分もこんな風になれたらと思います
その人とわたしは違う人だから、
同じやり方でいいかは分からないけど

どんな風に考えてるのか
見ていました

 


けっこうすぐ気付いたこと2つ

気付いたことがありました
1つは言葉や態度を貫くものです
力づける言葉を使っているんですが、
自分の感情で大きくブレることがない
それも自然で、
無理してる感じがない

本当のところは分かりません
苦しいことがないなんて、
生きていればないでしょう?
この人だってたぶんそうです

それでも力づける言葉を選んでいる
こうありたいと思う姿があって、
そこに向かう自分を信じている
そういうことでしょうか

2つ目は自分に厳しくないこと
よく「自分に厳しく」って聞きますけど
この人はそんな風にも見えません
肩の力が抜けた感じで、
どちらかと言えば自分に厳しくない

自分への態度って、
他人に反映しがちです
自分に求めるものを、
他人にも同じように求めてしまったり
そんなことはあるものですが

この人は自分に必要以上に厳しくないから、
他人にも余裕をもって対峙できるのでしょう
考えてみれば、
それほど意外でもないのかもしれません

 


柔軟性の違いがもたらすもの

わたしはその時々で、
態度を変えることがありました
その奥にあったのは恐怖
怖いから逃げたくなるんですね
まあ人だから、
それも仕方がないとは思うんですが

こういう人
一緒にいて気が休まらないと思います
状況に応じて態度を変える
そう言えば聞こえはいいかもしれませんが、
信頼という点では心許ない

その人も自分に厳しくないから、
変化することはあるけど
そこには方向性があります
変化があっても、
道筋を変えるための変化

変化して方向が正反対になるのとは、
ぜんぜん違います
芯のある柔軟性とでも言えばいいのか

そんな自分が好きかと言えば、
わたしは嫌だなぁと思ってました
「仕方ないじゃん」と自分に言い訳して、
結局逃げていた

自分が逃げているかどうか
それは自分がいちばんよく知っています
方向性があってそこを目指す自分
方向性がなくて逃げている自分
どっちが好きかと言えば
言うまでもありませんね

これは積み上がっていきます
変化の度に自分を否定する積み重ねと、
変化の度に自分を肯定する積み重ね
形になる自分も、
自ずと違ってくるでしょう

 


まとめ:どんな自分になりたいか?

自分の態度を変えるか、
変えないか

結局のところ、
どちらの自分が好きか?
どんな自分でありたいか?
決めていることの違いなのかもしれません

態度を変えて逃げることと、
態度を変えて柔軟に臨むこと
「態度を変えた」という部分だけ見れば、
同じであっても
結果は全く違います

周りを勇気付けられる人の、
こころの奥までは分からないけど
わたしはそんな自分になりたいから

ちゃんとなりたい自分を見て、
進んでいくようにしよう
すぐに出来ないかもしれないけど
一歩ずつ
そう思うのです

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忘れずに考えたいこと~何を残していきたい?

生まれてから死ぬまでの中で、
人はいろんなものを残していきます

自分は何を残していくのか?
考えるのは大切なこと
そう思います

 


お仕事辞めるときによく考えました
人はいろんなものを残して生きてゆく
自分は何を残すのかなって


子供の残すもの

子供を持ったことはないので、
親の気持ちはよく分かりませんが
子供のいる人に聞くと、
たいへんなことと同じように、
嬉しかった思い出がいっぱい出てきます

赤ちゃんは自分で生きる力はないから、
周りに生かしてもらわないといけません
やりたいことの時間を割いてでも子供の世話
たいへんな話です

大きくなれば反抗のオマケ着き
それでも人は育ててもらって、
大人になります

話せない赤ちゃん
話せるようになった子供
そんな子供たちの相手をしながら、
人は親となるのでしょう

そう考えると、
子供は親に育ててもらう代わりに、
存在で返しているものがあるのだと思います

 


大人になってから残すもの

大人になってからの行動は、
その人の選択に任されます
全てが積み重なって人生になる

その人の歩んだ軌跡は、
周りから見ることができます
それが大人になった人の残すもの
言葉と行動
存在の示すもの
「背中が語る」なんて言われますね
アレです

つらいことがあった時
その人はどんな行動をとるか?
こういうことを周りは見ています
そして波紋が広がるように影響を与える

つらいことがあると投げ出したくなる
泣くこともある
みんなそうでしょう

そこで投げ出すか
踏みとどまるか
自分に悲観して刃をふるうか、
それでも笑って人生楽しいんだって言うか

楽しい時も同じです
分かち合って穏やかなこともあれば、
調子にのっちゃうこともある
そこでどうするか?

人は選ぶものから周りに伝えられます
それを受け取って、
周りはさらに遠くへ伝えてゆく
大人の残すものは、
子供のそれより大きく波紋を広げます

 


まとめ:何を残していくのか考えよう

どんな生き方でもつらいことはあるし、
膝をつくことだってある
それでも人生楽しくできる
それは自分で選んで決められること
どんな生き方でも幸せはある

わたしが思うことです
わたしはこういう自分が好きだから、
また転んでも選びたいなって思います

自分がこんなだから、
人の選ぶものもつい見ちゃいます
わたしの近くにいる人は、
わたしと似た人が多いかな
だからそばにいるんでしょう

 

生まれてから死ぬまで
何を残していきたい?

つらいことがあっても、
忘れずに考えていこう
そう思うのです

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トランスジェンダーにとって大切なこと

毎日を楽しんで
自分を苦しめずに生きること

トランスジェンダーだって変わらず、
幸せに向かうのが大切
そう思います

 


トランスジェンダーって?

性別の越境者
最近は性的少数者LGBTなんて言われて、
いくらか知られるようになりましたが
やっぱり分かりにくいこの世界

LGBはどんな相手を好きになるかで、
Tは自分をどう捉える?ってお話だから
ちょっと視点が違います

よく誤解されますが、
身体の性別と好きになる相手は無関係です

生まれた身体の軸
自己認識の軸
恋愛対象の軸
それぞれ「男性~真ん中~女性」とあって、
みんなバラバラに居場所を置いている

「男性~真ん中~女性」というのも、
くっきり分かれるんじゃなくて
グラデーションで変化していくものです
同じ人は実質いないわけで、
分かりにくさに拍車をかけてますかね

 


真ん中で生き始めた頃のこと

わたしは男性で生まれて今は真ん中
男女どちらと言われるのも違和感がある人

トランスした頃は、
それこそ自分の違和感にばかり目が向いて
必要以上に他人の目に怯えてました
問題は自分が作り出すものと言われますが
典型的な例ですね

他人の視線に見咎める色合いを探して、
相手や社会を責めて
うまくやれない自分を嫌っていました
自分を嫌って幸せになれる人はいません
わたしも例外ではありませんでした

 


今トランスの生き方について思うこと

いつの頃かは分かりませんが
男女がどうとか気にするのを止めました
普段から「それは男だ」「あれは女だ」とか
気にして生きている人なんていやしません
自分で自分を苦しめているだけ
そのことに気付いたのです

今困ることがあるとすれば. . . 
銭湯に行こうと思って、
シンプルじゃない下着に気付いた時?
もちろん見られないようにはしますが、
これは見た人が困惑するでしょうねぇ

真ん中で生きて困ること
あんまりないというのが正直な感覚です
今は「わたしはわたし」でしかありません

 


まとめ:大切なのは長い長い先の道ゆき

トランスジェンダーにとって大切なこと
それは他の人たちと同じで、
幸せな人生を生きることです

人は自分の幸せを決めることができます
逆立ちしたって苦しいことも、
長い人生ないとは言えませんが
そこに対してだって態度は決められます

苦しみで自分を歪めてしまうか、
苦しみをくぐり抜けて花開くか
簡単に言える事じゃないとは思うけど

苦しみに耐えたことは、
その後の人生を楽にしてくれます
「アレに比べたらたいしたことないやね」
わたしよく思います


毎日の生活を楽しんで
自分で自分を苦しめずに生きること
みんな変わらないのかもしれないけど

トランスジェンダーだって変わらず、
幸せに向かうのは大切なこと
そう思うのです

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怒りの正体を知って良かったこと

怒りと行動との間
人はここに選択を挟むことができます
怒りのままにぶつければ、
相手も自分も傷付くだけだから

こころの奥の気持ちに耳を傾けよう
怒りの奥にこそ、
大切な人の大切なこころがあるから
そう思います

 


怒りの正体は何か

怒りは二次的なもの
よく言われます
怒りはそれ自体で存在せず、
何か別の感情によって引き起こされる
そういう意味です

奥にある感情
たいがいは悲しみです
寂しさなんかも入り込みやすいかな?
不当に扱われた
分かってもらえない
そう感じて引き起こされる思い

自分の気持ちを見つめるのって、
慣れてないと難しいのかもしれません
たまにすごい勢いで否定する人もいますが

自分の弱さを認めることができれば、
簡単に悲しさや寂しさに気付けると思います

 


自分の怒りは誰のせい?

前のわたしは、
感情と表現の間に余裕がありませんでした
導火線が短くて、
感じたことがすぐに表に出てしまう
怒りが悲しみみたいなものであるなんて、
気付く余裕もありません

そういう状態だと感情に振り回されます
暴れ馬みたいなもので、
自分でも手が着けられません
そんな時責めるのは相手
「怒らせたお前が悪い」ってヤツですが

誰も他人の行動を決定することはできませんわたしの怒りも同じこと
手綱をとらず野放しにしていたのはわたし
わたしの怒りは誰のせいでもない、
わたしのせいでした

 


怒りの正体を知って良かったこと

わたし内向的な性格なので、
悲しみと聞いてスッキリ
でもそれは頭の中でのこと
お腹から分かるのには程遠い感じでした

それでも繰り返し書いて口にも出すことで、
徐々にお腹から感じるようになって

最近は他人の言動も、
落ち着いて見られるようになってきました
怒りやイラつきの間に、
ちょっとだけバッファが入った感じ
でもそれも「ちょっとだけ」で
近頃直結させちゃったのは、
読んでる方ならご存知のとおりですが

まあ間違うことがあるのはともかくー
他人の気持ちに鈍感なわたしが、
ここまで感じるようになったこと
これは悪くないと思います

人はずっと変わらないわけじゃなくて、
気を付ければ変わっていける
人の気持ちだって、
少しは感じ取ることが出来るようになる
そういうことだからです

 


まとめ:相手の気持ちに耳を傾けよう

相手が怒ったように感じる時
「あ、悲しませちゃったんだな」と思うと、
相手のこころの声が分かります

突き放すような言葉は、
分かってもらえなくて悲しい気持ちの表現
正面切って迎え撃つようなものではない
自分と照らし合わせて見れば、
理解するのは難しくありませんよね

自分だって、
分かってもらえなければ悲しいです
相手もまた同じ
だとすれば?

自分が分かってもらえたら嬉しいように、
相手にもしてあげればいい
きっと大切なのは、
そこだと思います


怒りの奥の分かってもらえない気持ち
それをどう表現するかは、
その人が決めることです
怒りと表現の間に余裕を持っていくと、
相手の気持ちに気付くきっかけにもなるから

怒りの手綱をとって、
相手の気持ちに耳を傾けよう
何でもないように身近にいてくれる人は、
何よりも大切な人
そんな人の気持ちなんだから

そう思うのです

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タンポポのガク外しはたいへん

承前

 

というわけで、
今日も午前中からタンポポ集めです

所沢は農地も多くて、
けっこう空き地もあるんですが
意外とタンポポがない
背の高い草が先に茂っていると、
負けてしまうんでしょうか?

それでも久しぶりの方向に歩いたら、
雑木林の跡にタンポポがいっぱい
昨日の半分ほどの時間で、
倍くらい集めることが出来ました
スーパーの中くらいの買い物袋に一杯
昨日のものと合わせればけっこうな量なので
タンポポ集めはここで切り上げました

 


洗うのがひと手間

今回はすべてガクを外すわけですが、
その前にキッチリ花を洗わないといけません
花粉も味のうちだから、
あんまり洗わないってレシピもあったけど
前の経験から、
けっこう汚れが出るのも知っています

ボウルにあけて水洗い
何回も水を換えてやります
ホコリやゴミもでてくるし、
かなり気を付けて採取しても、
必ず虫が出てきます

花は水に浮かぶので流水だと流れます
めんどうでも水を換えて洗うしかありません
水がにごらなくなってゴミも出なくなったら
今日のメインイベントのガク外しへ

 


ガク外しがいちばんの大仕事

ガク外し
予想はしてましたが、
全体でいちばんの大仕事だと思います

タンポポの花の付け根にある緑色の部分
あれを全部外して花びらだけにしてやる
言葉にすると簡単なんですけどねー
地味にたいへんです

やっているうちにコツも飲み込めて、
手際よく出来るようになりますが
それでもガク外しだけで5時間
指と背中が痛くなりました

 


お湯をかけてひと休み

次は花びらにお湯をかけて抽出液を作ります
これはすぐに出来るわけじゃなくて、
数時間~2日漬けておかないといけない
タンポポの花びら茶を作ると考えると、
分かりやすいかもしれません
時間はレシピによってかなり違いますね

とりあえずかなり疲れたので、
今日はお湯をかけて切り上げにしました
明日か明後日、
仕込むことにします

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タンポポ狩りはじめました

生き物が活気づいてきた!

春がやってきてますね
朝夕や日が陰るとまだ寒いけど、
お日さまの出ているお昼は暑いくらい
徐々に季節が動いてるのを感じます

花を見ても思います
桜に水仙
タンポポに菜の花
冬にためていた力が一気に花開いている、
そんな感じがします

暖かくなると命が動き始めます
水が温かくなって、
ミジンコたちもまた出てくるかな?

ぬか漬けの床も酸味が出てきました
乳酸発酵が進んだということで、
気温が発酵によい温度になってきた、
そういうことですね

 


タンポポワイン飲みたくなった

発酵と言って思い出すのはタンポポワイン
ブラッドベリの小説のタイトルにもなってて
ご存知の方もいるかと思いますが
あれは本当にあるもので、
アメリカあたりではポピュラーな飲み物です

タンポポの花をお湯に漬けて抽出液を作り、
そこに砂糖と柑橘を加えて発酵させたもの
簡単に言えばそんなところです
レシピもけっこういろいろで、
レーズンを入れたりクローブを入れたり
柑橘の代わりに白ブドウジュースを使ったり

面白そうなので作ったことがありますが
わたしは花のガクも入れたので、
少し苦味がありました
野草茶と柑橘の香りのする、
ビタースイートなワインといったおもむき
春を閉じ込めて秋から冬に味わう
ちょっとゼイタクな楽しみだと思います

日本だと酒税法の関係で、
アルコール1%超えの発酵はアウトです
なので1%を超えないように、
気を付ける必要はありますが
うっかり超えてるってことはないかなー


たぶん

 


タンポポ狩りはじめました

というわけで思い立って、
タンポポの花集めを始めました

自家製酒作り
梅酒作った方は分かると思いますが、
それなりに時間がかかります
梅酒はヘタ取ったりとか手間ですよね

タンポポ酒もそこは変わりません
まず花集め
タンポポの花だけを、
首狩り族よろしくプチプチもいで集める
これがけっこう手間なのです

タンポポの花が開くのはお昼頃
陽当たりのいい場所に育つから、
集めるのはけっこう暑いです
手は黒くなるしホコリっぽくもなる
楽なものではありません

まあそれでも、
作るのは楽しいからやるんですけどね

過去2回作って、
ガクありの味は分かりました
時間がなかったのも、
ガクをそのままにした理由の1つです

今年は時間だけはありますから、
ガクを外して作るのに挑戦します
めんどくさそうだけど
かなり味わいが変わるとのこと
やってみる価値はありそうだなと思います

 


また明日~

今日集めた花は冷蔵庫に入れて保存中
明日また続けて集めるつもりです
順調なら明日は花を洗って、
ガクを外す作業がありますが

どこまでできるかな
加える糖分も、
ラニュー糖にするか黒砂糖にするか
ハチミツにしても美味しいです
いろいろ楽しみながら、
考えています

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趣味の話:Grubエントリーがすっとんで直したお話

Grubエントリーがすっとんだ!

Linuxのデスクトップ環境、
趣味でいろいろ触っています

WindowsMacOS含め、
どんなOSもそうですが
この手のOSはパソコンのスイッチを入れて、
突然立ち上がる訳じゃありません
最初に基礎部分が立ち上がり、
次に起動用のプログラムが続き、
そこからOSが起動します

パソコンを起動して出てくるメーカーロゴ
あの時に基礎部分BIOSが起動中です
次に出てくるOSマークの時は、
起動プログラムが裏で動いている
WindowsならWindows Boot Manager
LinuxならGrubが一般的でしょうか

複数のOSがインストールされてる時は、
ここはOSの選択画面になります
ここで選択肢が出てこないと、
OSはあるのに使えないことになる
そんなんなったら困ったこと. . . なんですが

手違いから消しちゃいました
Arch Linuxのインストールで、
Grubのidを『boot』にして
起動プログラムのOS選択肢が、
『Boot』だけになっちゃいました

 


頭の中真っ白

もう頭の中真っ白です
OSのバックアップはとってましたが
エントリーが飛ぶなんて考えてもいなかった
選択肢が出てこなきゃOSは使えないから、
バックアップも意味がありません

起動させようにも選択肢は『Boot』だけ
しかもそのOSも未完の状態です
どこまでの事態か分からないけど、
とりあえず復旧につとめました

まずBIOSの初期メニュー読み込み
これで『Boot』しかなかったメニューに、
いろんなデバイスが表示されました
OSのエントリーはやっぱりありませんが、
USBメモリは使えるように
これで手が打てるようになりました

 


まずはWindows

手持ちのUSBを引っ掻き回して、
まずはWindows10のインストールUSBを選択
起動したら「Windows10 setup」へ
→言語その他はそのままで『次へ』
→『コンピューターを修復する』
→『トラブルシューティング
→『スタートアップ修復』

スタートアップ修復完了後の画面では、
直せなかったとか言われますが
たいがいこれでWindows10は直ります
今回もこれで、
Window Boot Managerが復旧
Windowsが立ち上がるようになりました

 


お次はVoyager (Ubuntu)

次はLinuxのVoyager
Xubuntuの派生OSです
これはバックアップから完全復旧できるので
小細工しないでそれを使いました
バックアップソフトは『Bodhibuilder』です

Bodhibuilderはバックアップ時点の環境を、
iso形式のイメージファイルにできる優れもの
WindowsからUSBメモリにisoを焼いて、
サクッと復旧です
Bodhibuilderの便利さがあるから、
Ubuntu系使い続けますねぇ

 


お次はArch

復旧方法を思いついた順番で、
お次はArch Linux

Arch Linuxはインストールが煩雑ですが、
組んでいく過程でGrubインストールがある
それをやったら?
インストールUSBからマウントしてchroot
ここからgrub-installで解決~

Archはめんどくさいですが、
慣れたことでLinuxが少しだけ分かりました
ここでそんなことも実感します

 


残るはopenSUSEFedora

残るはopenSUSEFedora
どちらも解決策は浮かばなかったので、
インストールUSBを見てみることにしました

まずopenSUSE
起動画面に『More. . . 』とあるので選択
『Boot from Hard Disk』
を選択したら無事起動

最後がFedora
これが未だに分かりません
インストールUSBにも手がかりなし

消えたエントリー、
インストールしたEFIから復帰するのか
挿しといたら勝手に復旧
使えるようになったのはいいけど、
これは今後の課題です

 


まとめ:こんな積み重ねも嘘をつかない

ずーっと飽きずにやってることは、
いつの間にか力が付いてるものです
今回のことでそれを実感しました

Archみたいに、
文字だけでなんとか出来るようになればなぁ
そんなことも思いますが
それはここから先のお話
今回はこれで良しかなー

そう思っていたら、
家のWi-Fiがまた故障です
いろんなこと続くなーと思う金曜日でした

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