期待あったっていいじゃない?

人の行動に感じる期待
なんだかがっかりすることもあるけど

人はごちゃ混ぜの存在です
真心と期待とその他もろもろ
そこには自分だって関わっているのだから

自分も期待し過ぎないで、
相手の期待も許してあげる
決めつけてしまわない
それが大切なんだって思います

 

行動の背景に期待があるから、
この人のしてくれたことは喜べない
そんなお話を聞きました

自分にもそんなことあったな
言われて思い出しました
行動する側と受け取る側、
たいがいの人はどちらも経験ありそうですね

 

相手の行動を喜べないのは、
そこにフィルターがあるからでしょう
フィルターの存在は仕方ないにしても、
そこに自分が関わってる意識ある?
それはちょっと聞きたくなります

受け取る側にフィルターがなければ、
行動はそのまま届きます
素直に相手を感じて、
お互いを認めることができる
知り合って間もない頃か、
関心の薄い関係が当てはまるでしょうか

関係性が深まると、
ここにはフィルターが追加されます
フィルターの色は、
様々な積み重ねで決まります

「あの人はこういう人だから」
そんな言葉はよく聞くけど
フィルターは関係する双方が作るもの
どちらか片方だけの問題ではありません

もちろん行動そのものが問題ってことも、
いっぱいあるでしょう
行動の色合いは直接的な効果を持ちます

ただ受け手だって当事者です
例えば同じ「バカ」という言葉が、
関係性によって正反対の意味にもなるように
相手の行動にどんな評価を与えるかは、
受け手の決めることだからです

 

大切なのは、
その行動に自分がどんな意味を与えるか?
ここじゃないかと思います

『偽善』を糾弾するのと同じで、
背景まで清いものじゃないと無意味なのか?
そもそもその行動は、
本当に期待に基づいたものなのか?
そこに非難の目を向けるのは、
自分も相手に期待してるからじゃないのか?

 

他人に何か期待してしまうのは、
ある程度仕方ないと思います
何の期待もないのは寂しい時もあるし、
互いの関係に基づく期待は、
自然なことでもあるでしょう

いつも期待があるわけじゃないでしょう
純粋に真心から出る行動だって、
たくさんあるものです
本当にその人らしいのはこういう部分
人っていいなって感じる時でもあります

全て真心の行動ばかりかと言えば、
それも少ないかもしれません
人はこころのどこかで、
相手とつながることを求めるから
いくばくかの期待だってあるでしょう

それが人間だと思うのです
矛盾して、
上手くできなくて、
バカなことばっかりやって
それは自分だって変わらないから
期待を許してあげてもいいんじゃない?
そう思います

 

あまり舞台裏を気にしちゃうと、
その人らしさは分からなくなります
もちろんそれまでの積み重ねはある
上手く出来ない相手の行動に、
悲しみを感じたことも少なくないでしょう

それでも、
関係性には自分も関わっているのだから
上手く出来ない相手を許してあげて、
自分も相手に期待し過ぎない
一面的に決めつけてしまわない

その方がお互い幸せになれるんじゃないかな
そう思うのです


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