心配して役に立つことって?

笑っちゃうけど
心配して役に立った試しがありません

心配して何か行動をためらっても、
保てるのはその場の安全だけ
それが先々の安全でもあるかは分からない
目の前のリスクより放置するリスクが大きい
そんなことはよくあるから、
思ったほどメリットはありませんでした

誰かへの心配も同じです
何も出来ない子供ならいざ知らず、
大人への心配はたいがい杞憂に終わる

何かの状況に直面すれば、
自分はそこに対応します
それは他人も同じこと
その人なりの精いっぱいで対処するから、
余計な心配は足かせにしかなりませんでした

 

そこにあるものを大切に思うから、
手を添えたくなる
その気持ちは貴いもので、
心配の悪くない側面でもあると思います

他人のことなら、
そんな心配を伝えることは意味があります
誰かの気遣いは安心感につながるし、
危険な要素を先に排除できるなら、
それも有益なことだから

ただ心配は不安と同じで
たいした根拠がありません
それどころか、
「出来ない可能性」が大きく前提にあって、
その背後に「失敗はダメ」が控えている
これどうなのかなっていつも考えます

出来る可能性はどれだけあるのか?
出来ない可能性が高いなら、
可能性を高める方法はあるのか?
そもそも出来なかったらダメなのか?
心配する時考えるべきは、
ここなんじゃないかと思います

何を選ぶのかを決めるのは、
行動するその人です

行動すると選んだなら
自分でも他人でも、
必要なら助言を仰ぐでしょう
周囲の助言が意味を持つのはここから
それでも助言は助言でしかなくて、
聞くも聞かぬも行動する人の胸一つです

 

今あるものを失いたくなくて、
それを思いのままにしようとすれば、
そこにはどうしても無理が出ます
状況は変化するものだから、
心配ばかりしてもキリがない
いつまで心配していたら行動に移せる?
たぶんその時はやってきません

他人なら意思があるから、
反発して逃げていくだけでしょう
もし留まったとしても、
口出しして行動を左右してばかりいれば、
考える力のない人が出来上がるだけ
本末転倒ですよね

 

心配そのものより、
心配をどう表現するか
そこが大切なのかもしれません

自分で何かをするなら、
可能性を疑わないこと
大切な人が何かをしようとしているなら、
それを精いっぱい応援すること
「あなたには出来る」、
「なんならダメだっていい」と伝えること

心配する前にできること、
いっぱいあるよな

そう思うのです
f:id:ichapy:20180709091357j:image