見える人と見えない人

自分の好きなことや感じたこと
なるべく伝えるようにしています
その方が姿が見えて、
わたしという人が分かると思うからです

もちろん全てオープンじゃありませんよ
状況によって言いたくないこともあるから、
話さない選択をすることだってあります

話すことと話さないこと
自分はどんな風に使い分けてるんだろ?
不思議に感じたので考えてみました

 

人は分からないものに興味を持って、
対象を知ろうとします
そして知ることでその人なりに理解し、
次の行動が決まる

ここで対象が理解出来ないと、
リアクションは焦点のボケたものになります
情報を制限しているとこうなりがち
対象は自分に害になるのか?
最低限ここが分かればいいから、
それ以上踏み込んだ関係は生まれない
話したくないものは無理に聞かない
これも生活の知恵ですからね
察する文化の弊害でもあるでしょう

話さないでいるとき
姿や主張は表に出てきません
どんな人かはっきり伝わらないから、
深い関係は築けないけど
人との距離は広く保てるから、
傷つく可能性は低くできますね

話すときは、
姿や主張が前面に出てきます
どんな人かがよく見えるから、
時には嫌われることもある
そうなれば分かっていても傷つきます
反面で人との距離は近くなるから、
より親密なものを築くことができます

 

わたしの経験では、
トランスであることがこんな感じでした

最初は自分でも怖さがあるから話さないし、
周りもわたしが分からない
評価不能の相手は避けられます
害にはならないから、
とりあえずそこで関係はストップ
当たり障りのない関係に終始します

これがだんだん話すようになって、
周りに受け入れてもらえることも増えて
話しても構わないことが分かりました

面白いもので、
トランスであることを話した時の方が、
深い交流が生まれやすいと感じます
たぶんこちらの姿がはっきりして、
安心するのでしょう
踏み込んだお話にも花が咲いて、
より深い交流が築かれるのが分かります

 

わたしはそんな経験から、
周りに話すことが多くなりました
トランスであることへのこだわりは減っても
話し続けてる
これは相手が安心するように、
そう思う側面が大きいです

人との距離の近さはストレスだから、
状況によっては話さない方が適切でしょう
正解は人の数だけあるから、
話すことだけが正解ではありません

要は自分のやっていることが、
進みたい道に合っているかだと思います
ここバラバラだと、
ブレーキとアクセスの全力同時踏み込み
そんなの疲れる一方ですよね

 

わたしがやりたいのは、
発信して周りを力づけること
とするなら、
話していくことはわたし向きの戦略です

とこんなこと書いてても、
面倒くさいと思うことはありますが笑

めんどくさがりならそのままでいいから
話せることは話していこう
そう思うのです
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