それって伝えたいこと同じじゃないの?

喜びも苦痛も、
人が見る世界は自分たちが作り出しています

どんな世界を周りにあげたいのか
それぞれの見ている世界は本当に違うのか
知っておくのは大切なこと
そう思います

 

このところTwitterを眺める機会が増えて、
他人の思いに触れることが増えました
幸せな発信
苦痛に満ちた発信
誰かに怒りを向けるもの

見ていて気になったのは、
視点の違いでぶつかってる人たち
LGBTについて、
周りの温かさを発信する人と、
無くならない苦痛を発信する人がいる

わたしから見れば目指す場所は同じ
仲間たちが幸せに暮らせる未来です
表現は違うけど、
どちらも同じ世の中の一側面を切り取ってる
間違っているわけじゃありません
それなのに表現が不満で相手を責めている
何だろなぁと思います

 

人は自分が思うことで現実を作ります
周りに姿を与えることで、
その通りの現実になる

これはオカルトでも何でもありません
思いは言葉や行動に影響を与え、
周りにも波紋を投げかけます
響き合う人はより共鳴を深め、
合わないものは離れるでしょう

周りにはその人の考えに近い人が集まる
人が集まれば効果は強まります
発せられる波も更に強くなって、
お互いの影響圏で社会の認識が作られてゆく

幸せだと思う人の社会認識は、
より肯定的になっていきます
周りに肯定的な人が集まるから、
より温かなものになる

問題意識の強い人は、
社会をより良くしようとします
それ自体はいいと思うけど
社会を「無い」側面で否定的に見るから、
より否定的な意味付けが増えて行きます
同じ問題意識を共有する人も集まるから、
社会は無理解の場と見えてくる

 

同じことも、
伝え方は複数あるのです
苦痛の存在は、
温かさの不在を指す訳じゃありません
同じように温かさの存在が、
苦痛の不在を意味するものでもない

どちらかを認めることが、
どちらかを否定することにはならない
むしろ必要なのは、
世の中にどちらも存在すると伝えること
わたしはそう思います

温かさの存在を認めることは、
生きる人に力を与えることになるでしょう
理不尽や苦痛の存在を伝えることも、
人を生きやすくするために必要なこと

どちらも目指す場所は同じだと思うのです
発信の目的は苦痛の拡散ではなく、
喜びで生きられるようにすること
お互いを否定しても、
それは自分の半身を削るようなもので、
互いにとって意味のないことです

 

デリケートなこともあるでしょう
だからこそ感情的になって、
相手を責めても始まらない
改善した方がよいと思うことがあるなら、
「次からこうしてほしい」でいいはずです

世界は温かいばかりの楽園じゃないけど、
苦痛だけの戦場でもありません
大切なのはお互いを知ること
何を伝えたいかを知り、
上手くできないことは許すこと

そう思うのです
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