隣り合わせの死と向き合うこと

もし今日死ぬと分かっていたら、
目の前の人に何をあげたい?
世界に何を遺したい?

いつも考えなくていいけど、
たまには考えた方がいいこと
そう思います

 

この時期になると、
よく人の生き死にについて考えます
まあ普段から考えることは多いんですが

今日は広島に原子爆弾が投下された日ですし
9日は長崎原爆の日
15日の終戦記念日と続きますからね
折に触れて思うことも多い

わたしが子供の頃は、
戦争や公害などの社会的教育が盛んでした
そんな影響もあるのか、
子供の頃から生き死にに関心が強い、
ちょっと変な子だったのです笑

 

人はいつ死んでもおかしくない、
そんな現実を生きています
毎日考えてたら気が滅入るから、
あまり意識しないのが普通ですけど
隣合わせの死への恐怖はみんなあるでしょう

9.11のテロや東日本の震災
最近では西日本の豪雨災害
突然の事故や災害は、
簡単に人の命を奪っていきます

戦時中の人たちだって、
非常時であることは理解していたでしょう
それでも毎日の暮らしは続いてるし、
朝はやってくる
テロにあった人や、
天災で亡くなった方たちも同じ
そのまま生きていくと信じ朝を迎え、
死と出会ってしまった

これわたしたちも何も変わりませんよね
交通事故
突然襲いかかる病気
わたしたちは緩慢な死だけでなく、
暴力的な死にも隣り合って生きています

 

子供の頃からこんなこと考えてると、
「死ぬんだから何してもムダじゃね?」
なんて考えたこともありました
こんな虚無に囚われてる人
少なくないようにも思いますが
そんなことはない
今はそう考えています

人生は選択によって作ってゆくもの
この選択は、
命の有限性によって意味を与えられています
永遠に続く命なら、
その時何かする意味が薄いから
いつでも出来るなら、
そこでがんばる意味もないからです

「どうせ死ぬから意味がない」じゃなくて、
死ぬからこそ個々の選択に意味がある
今何を選ぶかは、
おろそかに出来ないことです

 

すごく簡単なことなら、
身近な人へ伝える言葉
おはようやさようなら
好きや嬉しい
時には悲しいことも

そこでやっておきたいこと
見ておきたいもの
食べたいもの

自分はどこにたどり着きたいのか?
大切な人に何をあげたいのか?
毎日の細かな積み重ねが人を作り、
これは死によって幕が引かれるまで続く
その幕引きが今日なら?

 

こんな風に死は、
生の意味をわたしたちに伝えます

もし今日の夕方には死んでしまうなら、
目の前の人と争うことに意味がある?
伝えることってない?
この世に何か遺せるなら、
苦痛と喜びのどちらを遺したい?

答えはシンプル
そう思うのです
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