疑いで現実を変えたいのか?

自分は嫌われている

「自分は嫌われている。
そんなの嫌だ。」
こんなお話をする人に出会いました

そこにいた他の人はわたしを含めてみな、
「どうしたらいいのか?」
という問いだと思ったのでしょう

「自分ならこうするけど」とか
「それしんどかったですね」とか
いろいろ話したんですが

気付くと堂々巡り
最初から話が始まっています

結局カウンセラーさんが話を導いて
現状がそう悪くないというところに、
落ち着きましたが

どうするのが良かったのかな
自分ならどうできただろう?
後でそんなこと考えました

 


求めていたのは何?

まずこの人は何を求めていたんだろう?
考えてみると、

解決を求めていない
話を聴いて自分の悲しみに共感が欲しかった

これは間違いなさそうです
何回も繰り返し表れるということは、
そこがいちばん大切だということですが
共感がもっともっと必要だったのでしょう

何か出来るのは本人だけです
共感してもらって自分が安心
まずそこが満たされるのが必要で、
話はそこからだったのだと思います

 


思い込みは怖ろしい

不都合な可能性を恐れてばかりいると、
起きてほしくない現実がやってきます

人は見たい現実だけを見ます
これは恐れも例外じゃありません

いくつもある可能性の中から、
上手くいかない可能性につながる疑いだけを
拾い集めてしまう
疑心暗鬼に囚われると、
他人の行動が疑わしく思えますね
あんな感じ

当然対応する自分の行動も、
疑いに根ざした物になります
この積み重ねが現実を作り出す

上で書いた人は、
こんな形で現実を作っていたと思います

わたしができることは、
話を丁寧に聴いてあげること
現実は自分で作っていると伝えること
そのくらいだったでしょうか

 


まとめ:疑いで現実を作りたい?

不安には正体がありません
だから自分で捨てる選択をすれば
なくすことができます

上手くいかない可能性と同じくらい、
上手くいく可能性もあります
結果は動いてみなきゃ分からないのだから

自分を疑いで固めて、
嫌な現実を作らなくていいんじゃないかな?
そう思うのです

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