空を観て思うこと

目に映っているだけでは、
見ていることにはなりません
 
心に留め、
こちらから会いに行く
意識を向ける
それが観ることなんだって
そう思います
 
 
 
秋がやって来て、
空気が澄んできましたね
晴れた空は抜けるように高くて、
つい上ばかり見ている自分に気付きます
 
身近に美しい空を撮る人がいます
わたしはその人の広い空が好きで、
自分もそんな風に撮れたらいいなと、
いつも思っていました
 
ある時その人から写真を教わる機会があり、
その目を追っているうち、
気付くことがありました
 
それまでわたしの上にあったのは、
概念としての『空』
わたしは空を見ていなかったし、
見ようともしていませんでした
きれいに撮れるわけないんですよね
 
 
 
その人は、
わたしに観ることを教えてくれました
そこに違いがあること
色、
深さ、
広さ、
一つとして同じ空はないこと
 
観るという視点を獲得すると、
それが全てに通ずることが分かります
人も物も自然も
同じものはないのです
必ず違いがあって、
そこに美しさが隠れている
 
違いにこそ広がりの種は隠れているのに、
たくさんのことを見逃している
そのことにも気付くことが出来ました
 
 
 
知ることは観ることから、
目の前にあることとの対話から、
始まるのだと思います
 
どんな時も観ることは大切
そう思うのです
 
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相手にあれこれ言いたくなるときは自分を見てみよう

人にあれこれ言いたいのは、
軽く見られて悲しいから?
相手の違いが許せないから?
 
でもそれはきっと相手も同じこと
違いに腹を立てて、
こころにトゲを届け合ってもつまらない
 
自分はどうなのか?
自分を棚に上げて、
言いたいことを投げつけていないか?
気にしておくのは大切だって
そう思います
 
 
 
不愉快で人にあれこれ言いたくなる
けっこうあります
ああしたらいいのに
なんでこうしないのか
 
若い頃を思い出すと、
世の中バカばっか
そんな風に考えたこともあります
恥ずかしいですね(^_^;)
 
困ったことに、
思うことに変な理屈は通っています
だから他人に対して言いたくもなるし、
そこに疑問も持ちませんでした
 
 
 
でも
いろいろ痛い目にあって分かりました
思いは全部自分に返るんですよね
「バカばっか」も、
「何となくこの人こう見えるな」も、
「こうすればいいのに」も、
まず自分がそうであることばかり
 
だとすると、
相手も自分に対して同じように感じてる?
相手の気になる部分は自分がそうさせてる?
 
お互いの思いと行動の関係を考えると、
可能性は高そうだな
そう思うようになったら、
自分の見方や行動が少し変わりました
 
 
 
人にあれこれ言いたくなる、
ここはそう簡単に変わってくれないけど
思った後で立ち止まれるようになりました
「あれ?これって自分どうなん?」
そう思えるようになった
 
人にあれこれ言いたくなるのって、
軽んじられたように感じて悲しいとか、
ガマンしてることをガマンしない人が目障りとか、
そんなことへの怒りが原因だったりします
 
怒りの持続時間は短いから、
最初の「イラッ」をどう乗り切るかが大切
ここで「自分どうなん?」は、
かなり効果があります
そして実際その通りだったりしますからね笑
相手を軽んじてるのは誰か?
ガマンの基準はみんな同じなのか?
 
 
 
相手も自分と同じ、
こころを持つ存在です
もちろん個々の違いはあるけど、
悲しいことつらいことが嫌で、
嬉しいこと幸せなことが好きなのは、
きっと変わらない
 
伝えるなら、
イラッとしてトゲを刺してまわるより、
笑顔をあげたいのです
だから「自分どうなん?」は、
とっても大切だと思っています
 
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相手が大切なら嫌なことは嫌と言おう

嫌と言わないことは、
相手の時間を浪費させます
時の刻みは命の刻み
失われたら二度と返ることのない、
大切なものです
 
お互いの命の時を大切にするために、
相手を信じて嫌と言うこと
大切なのだと思います
 
 
 
 
嫌と言うのが苦手です
そうしたら嫌われてしまいそうで、
怖かったから
 
でも考えてみると、
嫌と言える人もいます
そうしても関係が崩れない信頼のある人か、
関係が崩れてもいい人
 
真ん中の大部分は、
なんとなく嫌と言えない人
適当にお茶を濁して作り笑い
 
 
 
嫌と言わないことは、
相手を宙ぶらりんにします
その状態で、
相手にいったい何が出来るでしょう?
 
自分の時間と相手の時間
わたしは考えが甘かったと思います
自分の時間が大切なように、
相手の時間も大切なもの
失われたら、
二度と返ることのないものです
 
宙ぶらりんを止めることで、
お互いの時間は生きたものになります
その時出来ることに集中するために、
宙ぶらりんはない方がいいですよね
 
 
 
今まで自分が嫌われるの怖さに、
わたしはどれほど人の時間を無駄にしてきたんだろう?
考えると怖くなります
時の刻みは命の刻み
命を無為に捨てていたのと同じだから
 
変に期待を持たせるのではなく、
出来ないことは「出来ない」でいい
それで嫌われるなら、
それはわたしを分かってくれない人でしょう
 
人を信じること
今のわたしの課題です
相手を信じて、
嫌と言える自分になる
そう思っています
 
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頼ることは良いのか悪いのか

頼ること
良いと言われることも、
悪いと言われることもあります
 
たぶんその違いは些細なもの
それがないと生きられない依存になるか、
頼らないでいられるようになるか
答えはこころの向かうベクトルにある
そう思います
 
 
 
わたしには、
何かに頼りたがるクセがあります
人を信じるのが難しくて、
代わりに何かに頼ろうとする
 
過去の自分を思うと、
モノであったり人であったり
いろんなことを思い出します
 
一般に、
頼ることは良くないことと捉えられがち
アディクション(依存症)なんてのもありますからね
仕方ない部分もあるでしょう
 
でも考えてみると、
頼ることは悪いことばかりではない
そうも思います
何かに頼れるということは、
危機的に追い詰められる、
そんな状況を少なくするからです
 
 
 
それじゃ何が違うのか?
 
人が1人で出来ることには限界があります
助けになるものが何一つ存在しない
そんな孤立無縁の状態は、
こころを追い詰めます
 
反対に支えてくれる何かがある
それを知ることが、
どれほどこころを救うかしれません
頼るものがあることで、
つらい現実に耐えることができる
そんな経験は誰にもあると思います
 
頼れる何かがあること自体は、
悪いことではありません
自分の経験でよくなかったと思うのは、
頼るあまり立つことを忘れてしまっていた、
そんな印象のあることです
 
 
 
つらさから目を背けるために、
頼る対象だけを見ているなら
その状況に居続けることで、
つらさが無くなることはありません
だから頼り続け、
依存することにもなる
悪循環です
 
頼る対象が人生を変わりに生きてくれる?
そんなこと絶対にないんですよね
自分の人生と頼る先にあるものは、
同じにはなりません
お酒やギャンブル、
何かや誰かを好きになることも
 
頼ってよかったと思う関係では、
対象を自分の外に見ていました
そんな場所があることで安心できるから、
1人で歩き出す勇気が出る
かえって頼ることもなくなる
そんな関係です
 
 
 
「それなしでは生きられない」って、
自分を見失ってますよね
誰も人生を生きてはくれない
人生は自分だけのものです
 
頼る先があることで、
ますます依存心を強めるなら、
そこは離れることを考えた方がいい
 
頼る先があることで、
かえって1人で歩く勇気が出せるなら、
それはそのままでもいい
 
分かれ目はそこじゃないかって、
わたしはそう思っています
 
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膝をついた経験は悪いことか?

膝をつくこと
痛みに歩けなくなること
誰にもあるでしょう
 
人はどんな経験からも、
何かを得ることができます
大切なのは、
変わった今の自分を肯定してあげること
過去に囚われないこと
そう思います
 
 
 
5年くらい前に、
軽い鬱状態になったことがあります
 
当時わたしの下に、
他の部署で上手く仕事をこなせなかった、
そんな人が2人つきました
どうしても覚えられない
何度話しても同じミスをする
1つに注意を向けると、
他が全く見えなくなる
 
わたしも相当怪しいもんだと思うけど
人として求められることと、
会社で求められることの違い
そんなことに苦しんでいた人
生きづらさを抱えた人だったと思います
 
長い目で見れば、
上手くやれたかもしれません
でも会社は効率や成果が先に立ちます
出来なければ注意しないといけないし、
誰かがカバーもしなきゃいけない
 
結局何をやっても上手くいかなくて、
全てを自分で背負い込むことになって
自分がおかしくなりました
2人もがんばったけど、
それを認める余裕がどこにもなくて、
会社を辞めていきました
 
 
 
わたしのやり方や考え方は、
この時を境にずいぶん変わりました
 
複数のことを同時にこなす、
そんなスタイルは難しくなりました
頭が疲れやすくなったのかもしれないし、
元々ムリをしてたのかもしれません
いずれにしても、
複数のことに同時に対処するのが、
ちょっと難しくなりました
 
今は目の前のことに優先順位をつけて、
考えなくていいことは目の前から除外します
そうすることで、
自分が混乱する要素は排除する
 
人に対しても、
少しは寛容になれたかな
出来ないものは仕方ない
努力みたいなことは根拠にしない
問題は人にはない
間違いが起きる仕組みこそ、
なんとかしなきゃいけない
 
それぞれの人生の責任が、
それぞれにあることも理解しました
彼らのためにわたしは頑張ったけど、
出来ることには限界がある
彼らの人生は、
彼らがなんとかすべきだったのだと
 
 
 
自分が出来なくなったことは、
痛い部分もあります
目標にしていたこと、
達成出来ないかもしれない
 
でもそれは、
必要だったのかもしれない
そうも思っています
膝を着くことがなかったら、
いつまでも人を責める自分だった
自分しか愛せない
寂しい人だったでしょう
 
 
 
今頃何してるかな
その時の精一杯をやったから、
後悔はないけど
 
離れても、
人は生きてゆくものです
どこかで居場所をみつけて、
幸せでいてほしい
そう思っています
 

自分のペースの運動は気持ちがいい

運動のストレスへの効果は、
科学的にも証明されています
年齢と共に体力は落ちるけど、
運動は体力の底上げにもなる
 
楽しく生きるために、
健康であることは欠かせません
記録を狙うわけじゃなくて、
自分のペースでいいから
運動を楽しむ時間を持つこと
大切だって思います
 
 
 
今朝は久しぶりに、
近所の公園を歩いたり走ったり
運動を楽しんできました
 
家を出た頃は、
路面も濡れて空も曇ってたけど
徐々に明けてゆく空
切れてゆく雲
光る木々のしずく
とっても気持ちのいい時間でした
 
 
 
わたしは走るのが好きです
記録を狙って突き詰めるんじゃなくて、
ゆっくりペースでのんびりと
つらいなら歩いてもよし
飲み物もしっかりとる
音楽を聞いて、
気になったものは写真を撮って
自分と自然を感じる時間です
 
元々わたしは運動音痴
身体を動かすのは得意じゃありません
走るのもしんどいだけで、
楽しいなんて思ったこともなかったけど
 
30前の経験で見方が変わりました
当時のわたし身長172.5cmで体重80kg
完全に肥満なので、
摂取カロリー見直しと運動を取り入れて、
半年で61kgまでダイエット
 
この経験で、
自分のペースで走っていれば、
そんなにつらくないことが分かったのです
体育の授業がしんどいのって、
最大公約数でペースが決められてしまうこと
自分のペースさえ許されれば、
運動は楽しいんですよね
 
 
 
まとまった時間がとれないことを理由に、
最近ずっとサボってたけど
やっぱり身体動かすのは気持ちがいいです!
こころにたまっていた澱も、
すうっと消えていくのが分かる
 
「しなきゃいけない」は続かないから、
出来るときに少しずつ、
また運動してこうかな
 
新しいわけじゃないけど、
これも変化の風
悪くないと思うのです
 
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自分を檻に押し込めるのはもったいない

人の限界は、
思いのほか少ないものです
今までやっていなかったことをしてみると、
自分は確実に変わります
 
やっていないだけの事柄は、
本当にないのか?
改めて自分に問いかけること、
大切だって分かりました
 
 
 
出来ないと思っていること
わたしには大小さまざまいっぱいあります
それぞれ根拠もあって、
自分では納得しているつもり
 
でも本当に出来ないの?
新しいことに挑戦するお友達を見て、
改めて自分に疑問をぶつけてみて
 
気が付きました
『出来ないことリスト』は減らせる
知っているつもりで、
ぜんぜん分かっていなかった
 
出来ないと思い込んでいたり、
そうしない自分を納得させるために、
理由を作っていたり
やっていないだけの事柄の、
いかに多いことか
 
 
 
出来ない理由はいくらでも作り出せるから、
どうしたら出来るか考える方がいいですよね
細かいことでもやってみると、
世界は意外と簡単に変わるのです
そりゃもう面白いくらいに
 
今の現実は、
これまでの行動が作っています
同じ行動には同じ結果が返るだけ
ほんの少しの気持ちで世界は変わるのに、
それじゃあまりにつまらない
 
 
 
ここしばらくのわたし
いろんなことが行き詰まった感じだったけど
今までのやり方の限界がきていたのでしょう
必要なつらさだったと感じます
 
ほんの少しの変化なのに、
すごく気持ちは軽くなりました
細かい変化の積み重ねで、
自分はどこまで変わって行けるだろう?
そんな風に思うのです

 
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