趣味の話:ホンモノの音楽って何だろ?

自分の証明にニセモノを必要とする
そんなホンモノにどんな価値があるのか

感じることで良さが決まる世界なんだから、
音楽にニセモノは必要ない
そう思います

 

しばらく前のこと
音楽のことで、
「ニセモノ」という表現を聞きました

その時かかっていたのは、
リラックス/ヒーリングみたいなタイトルの、
クラシックのコンピレーション
バーバーの『弦楽のためのアダージョ』や、
フォーレの『レクイエム』みたいに、
比較的静かなものを集めていました

部屋に入ってきたクラシック好きの人
タイトルを見て一言
「ああニセモノか」

. . .ニセモノ
その人の中では、
音楽にホンモノとニセモノがある
クラシックを大切にしてる人だから
ヒーリングミュージックみたいなのは、
クラシックのニセモノと映るのでしょうか

そこでかかってたのは、
れっきとしたクラシックなんですけどね
なんだか気持ち悪いな
そう感じました

 

わたし音楽が好きです
今でこそ無節操にいろいろ聴きますが、
原点は子供の頃のアニメ特撮番組とか、
家でかかってたラジオの歌謡曲
家族の影響でクラシックやジャズ、
テクノなんかも聞いてみたり
高校生くらいからはゲーム音楽が好きでした

アニメやゲームの音楽って、
いわゆるサブカルチャーに属しています
今は日本のコンテンツみたいに言われるけど
ひと昔前は「くだらないもの」扱い
見下される風潮がありました

そんな空気は、
似た趣味の人は肌で感じていたでしょう
わたし自身も例外じゃなくて、
未だにコンプレックスがあります
カラオケでは歌いづらいし、
「ニセモノ」みたいな表現には敏感です

 

『ニセモノ』には『ホンモノ』
『くだらないもの』には『価値あるもの』
それぞれ対極の価値の存在が前提にあります

ホンモノに価値あるもの、
どんなものなんでしょうね
何かを正統として、
それ以外を異端とするのは簡単ですが
何かを落として価値を証明するしかない
そんな正統にどれほど意味があるんだろう?
そう思います

何かを異端とすれば、
理解を切り捨てることにもなるでしょう
そこにある価値には、
決して気付けなくなります

周りの変化に流される必要はないけど、
自分もその変化の中にあります
周りの変化に目をつむるのは、
立ち止まるのと同じこと

前に進むことを止めた時点で、
価値は停滞に陥ります
正統は古典になり、
いつか忘れ去られるでしょう

 

好きなものは好き
表現出来るのはすごく幸せなことだけど、
そこで何かを落とす必要はないはずです
音楽は感じるもので、
自分がいいならそれがホンモノになる世界
正解と同じで、
ホンモノは人の数だけあります

好きなことを好きと言えない空気、
そんなのはもう要りません
自分の好きなものも、
他人の好きなものも
ニセモノである必要はない

そう思うのです


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