車椅子の方の飛行機搭乗拒否問題を見て

マイノリティ「が」生きやすいのではなく、
みんなが生きやすくなければ
わたしはそう思います
 
告発して問題が見えるようにすることは、
もちろん必要だけど
マイノリティだからと言って、
責任と無関係ではいられない
あまり強引なやり方は、
いずれ揺り戻しを呼ぶ
 
そんな風に感じるのです
 
 
 
 
 
当たり前のはずのことが、
当たり前にさせてもらえない
マイノリティの問題って、
そんなとこがあります
 
車椅子の方が、
飛行機の利用拒否をされる
今時タクシーだって乗車拒否は~と思うから、
まだまだ問題は多いんだなと思ってたけど
 
いすみ鉄道の社長さんのブログ
この記事を読んで、
見方が変わりました
片方の意見だけで判断するのは、
欠席裁判みたいなものですからね
 
 
 
 
航空会社としては、
「障害のある人は利用出来ない」とは書きたくないでしょう
リスク管理の問題も、
たくさん出てくるのは間違いない
でも搭乗が不可能な場合があるなら、
それは理由と共にしっかり記載すべきです
事前連絡→搭乗拒否すればいいという姿勢も、
明らかに問題ですよね
 
利用者の側も、
「事前連絡が必要ない」は乱暴です
マイノリティの存在が考慮されていない
それを指摘するのは大切だけど、
やり方が強引過ぎると感じます
搭乗拒否はもちろんおかしいけど、
他を無視したのでは、
自分の権利は主張できなくなると考えます
 
 
 
社会を変えていくには、
強引な手段が必要なこともあるでしょう
みなが生きやすくなれば、
それが一番いい
 
だけど強引なやり方は、
必ず歪みを生みます
人の命を預かる輸送にも、
リスク管理のほころびを作ってしまう
 
今回問題提起されて、
車椅子の方が利用できる環境が整っていくなら、
それは素晴らしいことだけど
性急に変えたことで、
置き去りにされた部分
あるんじゃないでしょうか?
 
揺れ動いたバランスには、
必ず揺り戻しがきます
あまり強引なやり方は、
結局痛みの波をかぶる
 
人の命が関わる航空輸送
無為に命が失われることがないといいな
そう思うのです
 
 

かくれた恐怖の支配を脱するには

その人のことなんて言ってないのに、
過剰に反応する人がいます
 
思い当たる節、
あるんですね
しなくてもいいのに
言い訳せずにはいられない
 
そこにあるのは隠れた恐怖
自分の存在や、
思っていることへの罪悪感
 
大切なのは「望ましいあり方」じゃなくて、
人がその人自身であることです
言い訳しなくてもいいの
感じる恐れもそのままでいい
 
そこにあることを認めるところから、
恐怖は乗り越えられるのですから
 
 
 
 
 
フォビア/恐怖
誰の内にもあります
たとえばホモフォビアやトランスフォビア
前者は同性愛嫌悪、
後者は性別移行者嫌悪ですが
 
自分の親や兄弟が、
同性愛や性別移行の希望を持っていたら
どう感じますか?
その人はどんな人生を歩むでしょう?
 
この質問で抵抗を感じた人、
普通には生きられないと感じた人は、
成長に伴って刷り込まれた恐怖、
抱えてる可能性が高いです
 
「望ましいあり方」が、
社会には暗黙のうちに作られています
上の例なら「思春期になると異性を好きになる」っていう異性愛原理や、
「親より授かった身体を毀損することなかれ」な儒教的道徳観でしょうか
 
そこから外れた存在は?
人は理解出来ない存在を恐れます
刷り込まれたものは、
容易には拭えない
排除したくなる自分への罪悪感
当事者なら自身の存在に苦しむ原因
そんな表れ方をしたりもする
 
 
 
恐怖はいけないもの?
わたしはあったって構わない
そう考えます
大切なのは、
恐怖に支配されないこと
それを抱える自分から、
目を背けないことです
 
自分の思いを否定しても、
恐怖が消えることはありません
身の内に潜んだまま
様々な場面でフタを食い破り、
人を支配する
 
支配を脱する唯一の方法は、
向き合うことです
自分を認めると、
すごく人は楽になれる
向き合ってみれば、
恐怖なんてたいしたことはないのです
 
自分の中にあるものに光を当てる
それはつらい経験かもしれないけど
フタを開けてみることが、
自分を受け入れる第一歩になる
 
そう思うのです
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答えをくれる人なんて信用するな

選択は自らの意志決定です
誰かがしてくれるのではありません
 
出した答えに後悔しないように、
選んだことには本気であたる
誰かのせいには出来ないのだから、
答えは全て自分で見つける
 
それが誰のものでもない人生を作るのだと、
そう思います
 
 
 
 
答えを与えてくれる
そんな人を待っていても、
どこからもやっては来ません
人生は自分で生きるものだから、
答えを出すのも、
全て自分でなければならない
 
 
 
たまに、
答えであるかのようなこと
チラつかせる人はいるけど
そんなのは信じないほうがいいと思います
 
人が行動するときは、
何かしらの意図があるもの
自分のものではない人生に、
なぜ答えを出そうとするんでしょう?
 
自信がなくて、
人に口出しすることで、
安心したい人には会ったことがあります
こちらを操る意図のある人も、
同じようなことをする
 
そういう人の言葉、
信じていいとは思えません
言葉通りに選択してたとして
 
「上手くいったら自分のおかげ
良くない結果ならお前のせい」
 
そんなのが関の山でしょう?
 
 
 
自分の人生を生きていたら、
他人に口出ししてるヒマないと思います
何を選び、
どんな道を進むのか
それを決めるとき、
 
他人の言葉はアドバイスであっても、
答えであってはならない
全ては自分で決めるもの
そう思うのです
 
 
 

こういうスピリチュアルは嫌いだ

自分の人生を生きてない人は、
スピリチュアルでも宗教でも、
何をやっても同じこと
依存して人生から目を背けて、
自分を明け渡していて言葉も軽い
 
自分の人生を生きている人は、
何をやってもそこに在る
人生を見つめていて、
言葉はしっかりその人の言葉
 
自分の人生を生きる人が好き
結局わたしの答えは、
そこなのだと感じます
 
 
 
 
スピリチュアルが好きか嫌いか?
そんなテーマのお友達のブログを読んで、
自分の態度も一定でないことに気付きました
胡散臭く感じる人もあれば、
一言一句漏らさず聴きたい人もいる
 
イセリアル、
アストラル、
アウタープレーン、
ディビネーション
高次の存在
 
AD&Dのマスターなんてやってたから、
言葉にはなじみがあるけど
わたしは理が勝ちすぎていて、
素直に信じるのは難しい
 
かと言って、
自分の中に論理的でない存在が無いかと聞かれれば、
そんなこともありません
お墓参りで感じる亡くなった人の存在
神社やお寺での清澄な気
歳月を経た自然への畏敬
不在が語る存在
 
これから理論的に説明されることだって、
あるかもしれない
根拠がなくて判断は保留するしかないから、
好きか嫌いかでしかない
 
 
 
好きか嫌いか
たぶんわたしは、
スピリチュアルに抵抗がある訳じゃないのです
何かに傾倒して、
そこしか見ない人
他人までそこに当てはめる人
全てをそれで片付けようとする人
 
自分の人生を生きていない人、
わたしは嫌いです
自分以外に責任を転嫁して、
そこにいない人だから
 
精神的な世界は、
逃げ込むのには楽かもしれません
理屈じゃないことは隠れ蓑になる
深めようと思えば果てしなく深いのは、
たぶん他の世界と変わらないけど
 
 
 
正しいかどうかじゃなくて、
好きか嫌いか
そこで考えると答えはシンプル
 
どんな世界に生きていようと、
人生は自分が生きるもの
わたしはそう思うのです

意志の力になんて頼らない方がいい

何かを続けるとき
 
意志の力を使う部分は、
なるべく減らしましょう
余計な力を使わないで済めば、
楽に続けることができますから
 
環境をととのえるのは、
意志の力の有る無しより大切なのです
 
 
 
 
やりたいことがあって、
勉強しています
1日24時間どれだけ割けるか?
. . .なんだけど
 
お仕事してると難しいですね
家に帰ると疲れが出て眠くなります
勉強に関係のない誘惑も多い
 
意志の力でなんとかしようとしてきたけど、
止めました
こういうとこでは、
もう自分を信じない笑
 
 
 
最近は近所のファミレスとか、
比較的卓の広い飲み屋さんで、
パソコン広げてます
 
もちろんお金はかかるけど、
ご飯食べる時間も有効に使えます
外にいると眠くもなりません
最初からこうすれば良かったと思うくらい
 
 
最終的には、
努力や意志も必要になるかもしれません
だけどそこにたどり着くには、
継続することが何より大切
 
続けるために必要なのは?
たぶん楽してできること
つらいことは続かない
自分を見てて、
つくづくそう思うのです

 

 
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知ることは世界を広げてくれる、ということ

ピンチに陥ったとき、
降参するのは簡単だけど
諦めなければ、
可能性を広げることができます
 
知らないままなら出来ないこと
出来ないことは怖く感じるものだけど、
知ってしまえば壁もなくなる
困ったときは、
世界を広げるチャンスなのだと思います
 
 
 
 
 
前に使ってたパソコンが故障して、
意識していろいろ触るようになりました
 
文字で指示する必要はほとんどないし、
たいがいのことは自動でやってくれるけど
やっぱりブラックボックスは困る
今回の故障で、
そのことに気付かされました
 
 
 
 
今はThinkpadのX230を中古で購入
快適に使っています
もう5年くらい前のモデルで、
大量に中古が出回っている機種
 
大量にあって本体もパーツも安いから、
性能の低いモデルを安く買って、
マザーボードを交換(CeleronCore i5)したり
自分で工夫できるのは楽しいものです
 
Windowsだけに頼るのも止めました
Linuxも使って、
Winがコケてもパソコンが文鎮にならないように
詳しいお友達に触発されて、
クラウドも活用するようにしました
 
 
 
こうしてみると、
今までの自分の状態が、
いかに危ういものだったかが分かります
大切な情報なのに、
せいぜいバックアップとってるくらい
リスクの見積もりが甘すぎたのです
 
つもりは止めて、
できる範囲で知るようにしました
初めは右も左も~だったけど、
やっているうちに楽しくなって
気が付いたらおっかなびっくりじゃない自分
 
まだまだ分からないこといっぱいだけど
知ることは確実に世界を広げてくれる
それが分かります
 
パソコン壊れたのも悪くなかったかな
今はそう思ってます

 

 

場所を探すのではなく、場所になればいい

居場所を探し続けても、
キリがありません
自分探しと同じこと
どこにも答えはありませんから
 
自分が場所になると決めると、
見える景色が変わります
樹になって、
雨風を受ける覚悟をする
そうすれば、
そこが世界の中心
自分の居場所にもなるし、
誰かが休むことだってできるようになる
 
安心と安全は、
揺るがないことから生まれるのだと思います
 
 
 
 
30代
自分のあり方を考え続けていた頃
ずっと居場所を探していました
Xジェンダーのより所なさに甘えて、
外に自分を固めてくれるもの、
求めていたのだと思います
 
居場所を探してるときって、
こころに余裕がありません
余裕のない場所に人はいられませんから
周りにも誰もやって来ない
当たり前ですよね
 
 
 
 
この10年ほどで、
分かったことがあります
京都の土肥先生の言葉で救われて、
自分が世界にいていいと理解できて
 
すごく安心しました
その後も先生の主催する玖伊屋(マイノリティの集まりです)に寄せてもらって、
気持ちに余裕も生まれました
 
今の自分がやりたいのは、
土肥先生みたいに安心をあげることです
もちろん先生だって、
ご自分の悩みはあると思います
それでも場所になって、
光を発し続けている
 
 
 
分かったのは、
自分も場所になっていいんだ、
ということです
うまくやれないことが多くても、
きっと誰でも、
そうしようと思えば場所になれるのです
 
人は自分のいられる場所に、
安心と安全を求めます
こころと身体
それでいいんだよって、
言ってもらえる場所
 
完璧じゃなくても、
みんなが誰かの居場所になってあげられれば、
生きるのはすごく楽になりますよね
きっとそこから、
居場所も増えていきます
 
誰かたった1人のためでもいいから、
自分が場所になって、
安心をあげる
1人に伝えられないことが、
みんなに伝わるはずもありません
 
そうして続けていくことで、
伝えていけることもある
 
そう思うのです
 

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