渋谷で焼き肉!

FBのお友達が海外から帰ってきて、
『どうせ時差ボケだから飲もう!』っていう集まりに参加してきました
 
場所はここ
イベリコ豚おんどる焼裏渋屋

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最高級ベジョータのイベリコ豚を食べられるお店です
 
平日の29の日ランチがすごいんですが、
時間的にちょっとムリで、
いつも涙を飲んでました
 
今回はオーナーさん主催ってことで、
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普段ランチでしか出ないコンフィ丼に
 
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トンテキも食べることができました
 
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お肉ももちろん美味しくて

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締めの焼きめしまで食べてお腹いっぱい!
 
好きな人たちと美味しいもの食べると、
「あー明日もがんばれるよね」って、
単純に思えます
 
体重計のるの怖いけど笑
楽しかった♡
 
 

他人の普通に踊らされるな

社会の求める『普通』に従うことが、
幸せを保証してくれることはありません
 
人と違っても違わなくても、
選択は自分のもの
自分の人生の問いかけには、
自分以外が答えることはできないのだから
 
そう思います
 
 
 
普通を押し付けようとする人
前はイヤで仕方ありませんでした
 
いろんな局面で、
『普通』は圧力を加えてきます
内在化した『普通』が自分に向かうときも、
他人に向かうときも
社会から外される不安を与えて、
従うことを求めてくる
 
男性社会では、
男性と認められることが人の条件です
そこから外れることは、
人以下になることを意味するから、
『男性としての普通』をよく求められました
 
髪型、
服装の色、
振る舞い、
言葉遣い
都合のいい責任
自然と思うことが『悪いこと』にされる
わたしには居心地のよくない社会でした
 
 
 
男性社会から外れることを選んで、
こころを意識するようになったら、
恐怖や悲しみがよく見えるようになりました
 
なぜ他人に普通を求めるのか?
それは理解から外れた存在が怖いから、
価値観が脅かされるからでしょう
自信がないから鋳型に押し込めて、
普通であることに安心しようとする
 
自信のある人は、
自分と同じく他人も尊重します
怖がる理由もないから、
普通に固執しません
する必要もないのです
 
 
 
面倒な『普通』に遭遇した時、
自信のある人の態度は参考になります
『普通』がいちばん怖れるのは、
自信を持った態度
動揺は相手を喜ばすだけだから、
自分を崩さなければいい
 
これは自分の内面に対しても同じです
笑われることを怖れ、
普通の圧力に屈することは、
挑戦の気概を奪います
人はひとりひとり違って、
自分の人生の創造を期待されています
自分のあり方が他人と違っても、
胸を張っていいのです
 
 
 
普通にこだわらず、
自分のあり方に自信を持つ
これを意識し始めたら、
『普通』を求める人と自分の間に、
しっかり線が引けました
向こうはこちらが怖いから、
近寄ってこなくなりますし
 
普通で平凡な人生も、
もちろん素晴らしいものです
でもそれは自分が選んだ結果であって、
社会の普通に乗ったからではないはずです
 
どんな選択も自分のもの
普通であるかどうかも含めて、
自分の人生の問いには、
全て自分で答えてゆくものなんだって
 
そう思うのです
 
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『夜と霧』

読み返すたびに、
違った表情を見せてくれる本があります
ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』は、
わたしにとってのそんな一冊
 
ナチスの死の収容所を、
終戦まで生き延びた人です
『夜と霧』はその時の体験と、
過酷な体験から見出した人生観について、
心理学者としての視点も交え書かれています
 
 
 
20前後でしょうか、
強制収容所の記録として知った『夜と霧』
初めて読んだ時は、
強制収容所での体験や恐ろしさが、
特に印象に残りました
 
この頃のわたしは、
人を信じていませんでした
投げやりになって、
自分はどうなってもいいと思っていた
収容所に疲れ、
全ての希望を失った人と同じで、
人生を諦めていた
だからこの本の絶望が目に入り、
希望は目に入らなかったのでしょう
 
10年くらい経って再び手にしたとき、
感じ方の違いに驚きました
体験そのものより、
フランクルの感じたことが分かってきて
 
世界の美しさ
愛する人の存在がくれるもの
どんな人間になるかは自ら決められること
待っている人や事柄を信じること
生きる意味を問うのではなく、
人生の投げかけるものにこたえ続けること
 
結婚を考えていた人と離れて、
何でもないのに涙が出たり、
折れないように精いっぱいだったこの頃
希望を失わないことの意味は、
わたしを支えてくれました
 
 
 
この時から折に触れ手に取り、
読み返すようになりました
 
生きることに期待されている
これは読むたびに、
深みを増して感じられます
トランスして生きることを決めた時、
また迷ったりしてたけど笑
 
生きることからの問いには、
考えではなく行動、
言葉を弄することではなく態度で示される
そうフランクルは言います
 
わたしは考えや言葉が多いから、
行動や態度をもっと大切にしないといけないかな
ここしばらく読んでなかったから、
読み返したら何を感じ取れるのか
ちょっと楽しみです
 
 
 

 

夜と霧 新版

夜と霧 新版

 
夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

 

 

家族だからって期待もロクなものじゃない

家族は身近な分、
わがままの根は深いもの
次会えるか分からないのは、
他人も家族も変わらないから
 
フィルターのあることに気付いたら、
捨ててしまいましょう
家族だって、
分かって当たり前はない
そう思います
 
 
 
実家に帰ってきました
気楽だけど、
ちょっと疲れる笑
毎度のことだけど、
そんな印象が残ります
 
離れて暮らして長い割に、
家族はなまじ分かると思うから、
気持ちの確認もしません
そこにどうしても、
ズレが生じるんでしょう
 
してくれたことに、
ありがとうを言えなかったりして
あれっ?と思いました
他の人がしてくれたら、
素直に喜んでいるだろうに
 
 
 
たぶんこれは分かってほしい甘え
家族は分かって当たり前という期待が、
顔を出している
そんなことに気付きました
もしかしたら、
悲しませちゃったかも
 
分からないことには対処できないけど、
分かったのだから、
あとは変えてゆくだけ
次会うとき、
同じことはしない
そう決めました
 
人の運命を考えれば、
次ないかもしれないですけどね
後悔はしたくないから
 
そう思うのです
 
 
 

一緒でも離れていても、よい時間を贈りたい

身近に感じる人
いつまでもそのままではないでしょう
変わらないでいてくれるのは、
とっても嬉しいことだから
 
そばにいても離れていても、
よい時間を贈りたい
そう思います
 
 
 
田舎に帰っています
もう30年くらいの付き合いになるお友達と、
飲むお話がありまして
このお盆は帰れなかったから、
両親に顔を見せる意味もあります
 
田舎には、
片道3時間もあれば着きます
週末帰ることも難しくない
ありがたいなって思います
 
 
 
離れて暮らしてみて、
両親や友達と過ごす時間の短さ、
よく分かりました
 
近いとは言え、
帰るのは夏休みに年末とGWくらい
足しても年に1ヶ月ありません
両親ももう70代後半
100までがんばってくれたとしても、
一緒にいられる時間は2年程度ってことです
 
友達はもっと長生きするでしょうけど、
会える時間は両親より少ないですし
 
 
 
人が一緒に過ごす時間、
短いものですね
たとえパートナーや親子でも、
一緒に暮らしていても、
それは変わらないこと
いつまでもそこにいると思って、
目の前の人との関係を粗末にしてはいけない
そう言われる意味がよく分かります
 
離れてみるまで分からなかったのは、
恥ずかしいけど
でも気付けてよかった
そうも思います
 
大切な人へのありがとう、
ごめんなさい
他にもある気持ちを伝える言葉たち
笑顔をあげたい気持ちや、
楽しい時間を贈りたい気持ちも
ためらうことはないんだなって思います
 
もちろん人だから、
上手くできないこともあるけど
 
これからも、
一緒の人には楽しい時間を贈りたい
そう思うのです
 
 
 

 

 

曖昧を許容できると幸せが増える

白か黒かでは、
どちらかにしか幸せはない
黒にされてしまえば、
全ては否定される
 
灰色を許容できると、
幸せの範囲はぐっと広がります
はっきりは分かりやすいけど、
曖昧なのも幸せでいい
そう思います
 
 
 
曖昧なこと
よくないと言われること、
多いように感じるけど
わたし自身は、
曖昧な方がいいと感じることが多いです
 
白黒ハッキリは、
確かに分かりやすい
でも人のこころって、
そんなにクッキリ分けられるでしょうか?
 
わたし自身の生き方もありますが
はっきり二分させようとすることには、
息苦しさを感じます
 
「男なんだからこうしろ」
そう言われることは苦痛でしたし、
女性として扱われることにも違和感がある
 
基本的に好きになるのは女性だけど、
トランス女性を好きになったこともあるし、
男性から告白されたこともある
自分が好きになっちゃえば、
その辺関係ないとも思います
 
何かが正しくて、
他が正しくない
そうは思わないから
他人に対しては、
お互いの違いを知った上で、
許容できる部分を知るようにしています
 
 
 
幸せって大づかみに捉えることも出来るけど
何でもないような、
小さな部分にも宿るものです
 
曖昧を受け入れることは、
小さなことの住める場所を、
こころの中に増やすこと
幸せの住める場所も、
増えてゆきます
 
曖昧なことも悪くないよなって
そう思うのです
 
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出来ない自分も、力を借りるのも

出来ないことで力を借りるのは、
いけないことではありません
独りでは手の届くことしか出来ないけど
力を借りられれば、
手の届く範囲は大きく広がるから
 
出来ない自分を知る
それは恥ずかしいことじゃなくて、
人の強みなんだって
そう思います
 
 
 
みんな小さい頃から、
結果を評価され続けてますよね
学校では成績
お仕事では成果
 
結果を出すことに価値がある
そう考えていると、
失敗は無価値の証明になってしまうから
わたしには、
失敗はただただ怖ろしいものでした
 
失敗しないように発言を控えて、
失敗しないように行動もしない
何もしない人の出来上がり
つまんない話しです
 
 
 
でもトランスして、
周りのお友達から教えてもらいました
人の最上の価値は存在そのもの
普通から外れたって、
失敗と言われたって構わない
結果の有無は関係ないのです
 
赤ちゃんは結果とは無縁だけど、
いるだけで価値がありますよね
大人だって、
どんな生き方をしてたって、
それは同じです
 
 
 
結果の出せない自分
上手くやれない自分
そのままの自分を認められることは、
弱みじゃなくて強みなのです
 
身の丈の自分を受け入れると、
隠しておく意味がなくなります
そのままの自分を明かすことも、
力を借りることも恥ではなくなる
 
人1人の力
侮ることはできないけど
他人の力を借りること知らないと、
限界があります
 
人は手をつなぐことで、
その手を遙か彼方まで伸ばすことができる
それは人の強みの1つで、
個人の力を何倍にもしてくれるのです
 
 
 
制限だと思っていることは、
誰かの力を借りることで、
制限でなくなるかもしれません
そしてそれは、
自分1人の限界を知らなければ、
届かないこと
 
自分の手はどこまで伸びて、
誰へ届くのか
それが誰かの毎日を楽にするなら、
空を見上げるきっかけになるなら、
それも悪くはない
 
そう思うのです