バカなお人好しでは悪いのか?

惜しみなく与えるgiver
受け取ったら返すmatcher
受け取るだけで与えないtaker
世の中はこんな風に分かれるそうです

Books&Apps
『「惜しみなく人に与えて成功する人」と「単に搾取されてしまう人」の紙一重の差とは。』
https://blog.tinect.jp/?p=51988&&p=51988&__twitter_impression=true
わたしはこのブログで知りました

ブログの内容はこの本によるようですね
『GIVE & TAKE「与える人」こそ成功する時代』
https://www.amazon.co.jp/GIVE-TAKE-「与える人」こそ成功する時代-単行本-グラント/dp/4837957463

曰わく世の中の成功者にはgiverが多く、
最も成功に程遠い人たちにもgiverが多い
成功に程遠い人はtakerに搾取され、
成功者はmatcherに優先して与えている
成功者は他者志向型、
成功に程遠い者は自己犠牲型と

分かりやすいなって思いました
確かに身近にもそんな人たちがいます

 

わたし自身は自己犠牲型のgiver、
「バカなお人好し」が近い
わたしがあげることで得るのは、
あげるほどに豊かになる喜びです
好きな人の笑顔が嬉しい
わたしの行動原理です

わたしの行動の裏には、
強い承認欲求もあります
誰かの役に立つことで、
自分の価値を確認する
これは悪いことばかりじゃなくて、
わたしの力にもなってますが
度が過ぎれば利用されますかね

がんばってしてあげて、
それが当たり前のように扱われる
何かおかしいと感じたまま取り残される
自分がやりたくてやったのだから
そう考えて済ませても、
モヤモヤを感じることはありました

 

世の中にはいろんな人がいます
他人を効率よく動かして、
自分の利益を大きくすることにしか興味ない
そんな人も確かにいます
takerの行動原理は分かりませんが、
損得の視点が強いのかなとは思います

メリットとデメリットを考えると、
明確にどちらかが大きいものって少ない
たいがい得(メリット)があって、
同じくらいの損(デメリット)がある

だからどちらかが得を取れば、
どちらかは損を取らねばならない
得を大きくするためなら、
損を他人に押し付けることを厭わない
takerってそんな人なのかもしれません
こんな人にとっては、
「バカなお人好し」は恰好のカモでしょう

 

損得の視点、
必ずしも悪いものではないでしょう
身に付けた方がいいのかな?
ちょっと考えましたが
自分の好みと照らしてどうにも馴染まない

損得の視点で見れば、
確かに損はどこにでもありますが
わたしの答えは損得の向こうにあります
内容的にはスーパー「バカなお人好し」
あまり人には勧められませんが

受け入れると決めたことは
損もそのまま受け入れる
そうすると、
確実に見えて来るものが変わります

デメリットも含めて受け入れて、
そのままの対象を愛したとき、
損失は損失じゃなくなる
その状態はすごく楽なのです

視点を損得に固定するなら、
立っている土俵はtakerと同じ
度合いの多寡でしかありません
わたしはそれは違うと感じます

もちろん搾取されるだけの状態は、
楽なものとは言えませんが
それを理由に自分を変える必要があるのか?
ここも疑問を感じます
所属できる社会は1つではないのだから、
takerのいる社会を捨てれば済む話です

 

結局のところ、
人は自分の生きたい道を選びます
成功者の道
バカなお人好しの道
奪い取って損をしない道
他にもいろいろあると思うけど

わたしはバカなお人好しで、
その生き方が好きだったりします
他の道が損得を通らないと到達出来ないなら
わざわざ自分に嫌なものを入れる必要はない

そのまんまでもいいのかな
そんな風にも思うのです

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白と黒だけなの?

自分だけが正しい人
苦手だなって思います
たいがいの話しが白か黒
基本的にその人が白だから、
必然的にこちらは黒になる
こちらが何か言えば相手が黒になるから、
こちらはことごとく否定される

そういう人と話していると、
わたしは間違っていて何も出来ない人です
怒っても仕方ない
分かっていてもイラッとしてしまいます

怒りは視野を狭めます
正しさはみんなにあるんだから、
決め付けるなんておかしいじゃないか
そんな風に考えて、
相手を責めてしまうけど

正しさがみんなにあるなら、
相手にも正しさがありますよね
正しさを笠に着て相手を責めるなら、
それは相手と同じ行動をしていることになる
大きな矛盾だと思うから、
考え続けました

 

人から何か言われること、
わたしはすごく怖いと思ってます
相手にそんなつもりはなくても、
自分自身を否定されるように感じてしまって

考えてみれば、
わたしの考えは相手と同じなんじゃないか?
そう思えてきます
何か言われると否定されているように感じ、
自分の白を守るために必死になってしまう

噛み合わない関係って、
もしかしてこんなものかもしれません
相手の白を認められなくて、
堂々巡りして叩き合う

わたしは相手を責めてるつもりはないけど
責められてると感じているかもしれません
こちらが責められるように感じるのは、
身を守ろうとする姿なのかもしれません
いずれにしても、
お互いにとって楽ではないことでしょう

 

考え続けて、
答えはまだ出ないけど

そこから何を選ぶかで未来が作られるから
その人も自分も何色でもいい
どちらも否定しないで進む道、
探そうと思うのです

 

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親もそのとき精いっぱいなんだ

群馬に帰ってきてます
わたし生まれは新潟だけど
幼稚園で引っ越してから高校卒業まで群馬
田舎と言えば群馬なのです

父親78で母親75
若いとは言えないけど、
元気にしてくれてます

 

一人暮らしを始めてから、
わたしはあまり家に寄り付かない子でした

子供の頃いじめられて、
両親に助けを求められなかった
身体に関する違和感も、
分かると思わないから話さなかった

自分は結局1人
誰も助けてはくれない
そんな思いばかり強くて
他人は信じられないもの
両親も頼っちゃいけないと思っていました

今はずいぶん楽になりましたよ
いつの頃からか、
両親も自分と同じで、
精いっぱいだったって分かるようになって

 

わたしたちはその時の最良を選んでいます
考えて考えて、
いちばんの答えを選んでいる
やってみた結果が上手くなくても、
それは結果論に過ぎません
選択が最良を信じたものなのだから、
その選択に後悔は必要ない
わたしはそう思います

考えてみれば、
これ両親も何も変わらないんですよね
わたしは次男だったけど、
長男とは明らかに違います
どんな選択も初めてと同じ
分からないなりに精いっぱい、
わたしに向き合っていたことでしょう

なんでそんなひどいこと言うの?
そう思うこともあったし、
許せないと思うこともありました
でもそれは、
自分が上手くやれないのと同じこと
責めても何にもならないって分かりました

父親には身体のこと話していないとか
そんなことはまだありますけどね
何でも話せばいいものでもないから、
そこは今の精いっぱいでよしとしてます

 

わたしが家に帰るのは、
お盆にGWに夏休みにお正月
まとまったお休みがあるときです
全部合わせれば半月くらいかな?

1年で半月
少ないなって思います
男性の平均寿命は81で、
女性の平均寿命は87
両親の年齢を考えると、
まだ平均寿命までは何年かあるけど

会えるのはその年数 x 半月
例えあと10年生きてくれても、
半年にも満たないことになるから
帰れるときは帰ろうと思ってます

 

世界は自分が作っています
誰も助けてくれない現実を作ってたのは自分
分かってくれない両親を作ってたのも自分
気持ちの向け方を変えてみて、
それがよく分かりました

夏休みの数日
つまんないことでケンカしちゃうかもしれないけど
あとどれくらいあるか分からない時間
大切に過ごそうって思うのですf:id:ichapy:20180812035159j:image

 

マルチタスクは無理だから

このところ、
本を読むことに時間を多く割いてます
『広島第二県女二年西組』
体調不良で学校をお休みして、
原子爆弾で死なずにすんだお方が書いた本
被爆して亡くなった同級生の足取りを、
可能な限り辿っています

ずいぶん前から知ってはいたけど、
通して読むことが出来なかった
やっぱりしんどかったのです
文庫になってたのを知って、
久しぶりに手にとって
今回は読めそうな気がしたので、
集中して読み進めています

 

わたし器用な人じゃありません
特に思うのは
複数のことに対処するとき
同時にこなそうとするとどれも中途半端
痛い目に遭います

本に向かうとき
面白そうな本はいっぱいありますよね
複数を同時に読み進めてみたこともあるけど
どれも読了できず
理解も中途半端で終わってしまう

SNSをやること
目標なんかも同じです
複数を同時にやろうとすると、
二兎追う者は~となっちゃう

まあ集中力があるって考えれば悪くないから
いろいろソツなくこなそうとするのは、
40過ぎてやめました

 

別に何が間違ってるわけでもないでしょう
わたしはシングルタスクな人だけど、
マルチにこなせる人もいる
向き不向き
好きか嫌いか
違う中から選んでいるだけのこと

選択肢はいつもあっていいと思います
自分で選び続けることに意味がある
そう思うからです

わたしは?
一冊の理解だけでも簡単じゃないのに、
複数読み込むとか、
他の作業と並行するとかとてもムリ
やっぱりちゃんと知っておきたい
部分だけで理解する自信はないし、
出来ると思うならそれは傲慢だと感じるから

 

徴兵で男手の少なかった昭和20年
作業に駆り出されたのは女性や子供たち
広島第二県女の生徒たちも例外ではなく、
二年西組の14歳ほどの女の子39人、
爆心から1.1kmの雑魚場町で建物疎開被爆
20日までに38人が死亡
最後の1人は昭和44年に亡くなりました

46歳のわたしからすると、
第二次大戦は体験の外、
過去の話だけど
わたしたちは過去から学ぶことができます
残された親の嘆き
生き残った者の罪悪感や後悔
そんなものは繰り返さないようにできます

過去に生きた人たちも、
今を生きるわたしたちも、
未来を生きる子供たちも、
感じることはそう違わないはずです

大好きな人に、
悲しい思いをさせたい人はいませんよね
わたしはこれからを生きる子供たちに、
こんな苦しみを残したくありません

過去を受け止めるて、
苦しみを繰り返さないためにも
一冊にちゃんと向き合うこと、
大切かなって思っていますf:id:ichapy:20180810072940j:image

 

言葉は不完全なものだけど

言葉は不完全なものだけど
その意味は使う人によって変わるもの
意味を与える余地があると見るなら、
不完全さは自由の幅になるから

自分の意思をもって、
言葉に意味を与えて行くこと
大切だと思います

 

言葉って不完全だな
よく思います
人によって意味が違って、
気分や語調で意味が変わって、
時と場所でも変わって
それなのに言葉を使わないと分かり合えない

書き言葉だと、
より一面的になるように思います
目の前にその人がいないから、
言葉以外の情報が抜け落ちる
思ったことを伝えるのは、
より難しくなりますね

ブログを書くようになって、
言葉には気を付けるようになりました
わたしスマートフォンで書いてるから、
画面の幅で一行の文字数が決まります
変なところに改行が入らないように
なるべく簡単な言葉になるように
誤解も少なくなるように言葉を選びます

Twitterをやっていても思います
こちらは140文字でどう表現するか
なるべく分けないように考える
これは日本語の楽しさでもありますね

 

書き言葉の難しさは、
何を読みとるかでも感じます
限られた言葉で書いているから、
より誤解も生じやすい
そこだけを見て判断すると、
一面的な理解に陥ることが多い

相手を知らなければ真意は分かりません
見える部分だけで判断しようとすれば、
ピントもズレてしまいがち

言葉の意味を決めるのは受け取る側です
普段の考えやその時の心配事の影響で、
本来とはかけ離れた意味に取られてしまう
そんなことも無いとは言えません

文章が限られた言葉で表現される以上、
書かれていない言葉もあります
書かれないことは、
時に書かれたこと以上に意味がある
そんな部分から読み取れる情報には、
とても大きな可能性があると感じます
もちろん的外れなこともありますけどね笑

 

言葉は不完全でいろんな難しさがある
それじゃどうすればいいのか?
どうするかを決めるのはいつでも自分です
道具は不完全でも構わない
その道具で何をしたいか?
大切なのはここでしょう

何も考えずに発せられる言葉は、
不用意に振り回される刃と変わらないけど
意思のある言葉には、
一点へ向かおうとする力があります

相手に何をあげたいか?が分かっていれば、
発する言葉は選べます
何を読み取るかでも同じです
相手の言葉から何を読み取ってあげるか?
その人のどんな側面を応援したいか?
方向が決まっていれば、
何を読み取るかも選べます

 

言葉は不完全なもの
それは間違いないけれど

その不完全さは、
使う人の意思によって意味を変えられる
不完全であることを嘆くだけなら、
それは不完全なままで終わるけど
意思をもって使うとき、
その不完全さは意味を与える余地になります

『使える』かどうか
これを決めるのも自分であるなら
ないことを嘆くのじゃなくて、
そこにあるものを生かすことを考える
大切だと思うのです
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矛盾だらけの全体を愛そう

人は部分だけの生き物ではありません
いろんな側面があって、
そのどれもがその人の顔

一面的に見ていたら、
本当の姿は見えてこないから
全体を知り、
その上で考えることを諦めずにいこう
そう思います

 

要素が自分を作ってるのではなく
要素は自分の構造の一部
お友達がそんなことを言ってました

人はいろんな顔を持って生きています
まるで宝石の切り子面みたいに、
光の当たり方で輝きが変わる
全く違って見えていても、
全てはその人の一部です

他人を見るときも自分を見るときも、
部分に囚われず全体を見ることが大切です

要素に支配された人はそれ一色
純粋ではあるけど柔軟性に欠けている
様々な輝きを忘れた状態です

時に矛盾に満ちていて、
他人に説明が難しかったりもするけど
全ての輝きがその人の姿でしょう

その人はある部分だけじゃはかれない
流れがないので分かりにくいと思うけど
この方が言っているのは、
そういうことだと思います

 

部分に囚われることの何がマズいって、
一面的な答えしか出なくなることでしょう
自分や他人を決め付けたり、
白か黒かの思考に陥って、
他者の正しさを否定してみたり
もちろんどんな考え方でも構わないけど、
ちょっと息苦しさを感じます

発展性のある視点は、
複数の視点を重ね合わせた時に現れる
わたしはそう考えています
ある価値観が正しくあるために、
他の価値観は否定されないといけないのか?
全体性と矛盾を許したとき、
新しい可能性は見えてきます

違う人が集まって生きている以上、
意見が同じになることはありません
そこで互いを否定しあっても、
誰も幸せにはなれないでしょう

何かのために他が犠牲になるのではなく、
痛み分けでもなく
みなが少しずつ楽になる答え、
あると思うんですよね

 

知識は火と同じ
考えなしに使えば周りを傷付けるけど、
適切に使えば周りを温めることも出来る
大切なのは知ったことをどう生かすか
お友達の言葉からは、
そんな温かさと知恵を感じます

わたしも部分に囚われることなく、
矛盾だらけの全体を愛そう
人を冷たい刃にしてしまわぬように
知ることも考えることも諦めずにいたい
そんなことを思うのです
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わたしはニブい

わたしは疲れに強い!
痛みにも耐えられる!
. . . ほんとにそう?

身体感覚が弱い人は、
身体を酷使してるかもしれないから
身体の声に耳を傾けて、
いたわってあげること
大切だと思います

 

自分は身体感覚が鈍い
最近そう感じています
子供の頃から運動はニガテ
細かい手先の作業は好きだけど、
突出した能力があるわけでもない
習得も時間をかけてゆっくりが基本です

今勉強してることでは、
指先のどこに力がかかっているか?がよく分からない
右手に力を入れる時、
気付くと左手にも力入れてたり
ベール1枚隔ててるようなもどかしさ
回数こなせばベールも薄くできるけど、
先生の鋭敏さは雲の上の世界です

疲れにも鈍感かもしれません
前からそうなんですが、
疲れから眠気がくると全く抗えないのです
自分は意志が弱いのかな
そう思ってたんだけど

単に疲れに鈍いだけかもしれない
気付くと電池残量5%みたいな感じ?
そりゃ強制的に省電力モードになるわけです

肩がバリバリに凝っていて、
意識できてないこともよくあります
メンテナンス行って、
施術する人に驚かれたりしちゃう

身体に抱く違和感も、
この鈍さと関係あるかもしれません
鏡を見て感じる二重写しの違和感
身体とのつながりが弱いから起きてるのかも

 

身体感覚の鈍さは、
時に自分を助けてくれます
疲れをごまかせるから、
少し長く活動できたり
つらさを無視できたり

でもこれは、
身体の送る危険信号にも鈍いってこと
年をとって性能落ちてきてる訳で、
これからはそれじゃマズいでしょう

昨日の午前中は疲れてる感覚なかったのに
帰りには本当にぐったり
美味しいもの食べて帰宅
やること片付けてすぐに寝ました

今朝はスッキリ?
実はそうでもないので、
想像以上に疲れてるのかもしれません
わたしそのくらい感覚に鈍い
これまでどれだけ身体酷使してきたんだろ
そんなことを思います

身体の声によーく耳を傾けて、
今日は事故起こさないようにムリせずいこう
そう思うのです
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