人は独りで死ぬということ:2

承前


絶望して周りを巻き込む殺人者は、
「ひとりで死ぬべき」という言説があります
ここに対し、
『他者への言葉の発信や想いの伝え方に注意をいただきたい』
という文章を見て思うことです
https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20190528-00127666/

意外に多いのが、
元の文章で言われていることを、
事件の犯人に向けているとする勘違いです

この文章で想定されているのは、
社会的に追い詰められたように感じている、
危ういバランスの下にある人たち
声のかけ方1つでどうなるか分からない
そんな人たちです

その前提のもとで
前の記事では、
命の孤独を伝えること
メッセージを発し続けること
この2点の必要性を書きました
http://xgender-isao.hatenablog.com/entry/2019/06/02/120805

今回はこの先
わたしがモヤっと感じた部分についてです

『人間は原則として、自分が大事にされていなければ、他者を大事に思いやることはできない』
だから「1人で死ぬべき」と追い詰めず、
声をかけ続けていってほしい
そう言っているわけですが

「いただきたい」と言う割には、
一方的に求めているように感じて
少し違和感が残ったのでした

 


互いに自分がどうするかをスタートに

基本的に人は変わりません
むしろ他人に求めれば求めるほど、
相手は守りに入って変わらなくなる

当事者の視点では、
「他人は自分を気にかけてくれない、
社会に何も期待できない」
そんな気持ちから、
絶望を深めるのかもしれませんが

逆だと思うのです
自分が世の中や人生から期待されている
精いっぱい生きて、
人生をどんなものにするかは、
誰かが与えてくれるものじゃありません

社会に不十分な点があるのは、
間違いないと思いますが

自分以外が悪いという視点に立つ限り、
解決はありません
他人は思うようにならず、
自分には何が出来るか?という考えにも、
思い至らないからです

 


正しさは1つじゃない

「自分が悪いと思え」
そう言っているわけじゃありません
正しさは相対的なもので、
社会には社会の、
当人には当人の正しさがあるということです

それぞれの正しさを掲げても、
平行線にしかなりません
それぞれの視点に固執する限り、
「相手がおかしい」
という結論にしかならないからです

社会の側が一方的に、
「死ぬのなら1人で死ぬべき」と言うのは、
社会の側の正しさでしかありません

「おかしな方向に行く可能性があるのだから
追い詰めるようなことを言うな」
「大切にされていない人なのだから、
まず大切にしてやってくれ」
元の文章が伝えるのは、
追い詰められた側の正しさです

「こうすべき」、
言葉の影の「こうしろ」は、
社会的な正しさを笠に着た押し付けです
ここからは何も解決しないでしょう
わたしがモヤっとしたのは、
ここなのかなって思います

 


まとめ:どちらが先に優しくする?

互いの正しさに耳を傾け、
余裕のある側が優しくしていこう
元の文章が本当に伝えたいのは、
そういうことなのだと思います

命の孤独を伝え、
その尊さを伝えること
社会は見捨てていないと声をかけ続けること

これで変わるか?と言えば、
たぶんすぐには変わらないと思います
受け取る側の耳が、
受け付ける状態ではないからです

ただ声をかけ続ければ、
だんだんと届く声も増えて行きます
その人がその人を大切に出来る
そこにたどり着くまで

自分を大切にできるようになれば、
他人のあたたかさを、
受け入れられる部分も増えます
そうなるまで

わたしたちに出来るのは、
わたしたちのことだけだから
余裕のある側が優しくしていく
辛抱強く接していくこと

大切なんじゃないかな
そう思うのです

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