人は変えられる

お友達とお話していて、
なんとなくやりにくい人の話になりました

それでこんな話をしました
人を変える簡単な方法です

 


人は変えられる?

人は基本的に変えられません
だから何か状況を変えようと思うなら、
自分が変わることから始まります

とは言うものの、
他人が全く変わらないわけじゃありません
変えていく方法も実はあります

まず変えるにしても自分から
ここは同じなんですけどね

 


言葉は人を作る

心理学や教育学では、
「人は言われたことに注意を向けて、
言葉通りの現実を作り出してしまう」
ということが知られています

自分で自分に向ける言葉でも、
他人からの言葉でも同じこと
良いことでもそうでないことでも同じです

言われたことに向けられた注意によって、
人は「言われたこと」の情報を集め始めます

「こうなったらどうしよう?」
「なんでそんな風に言われたんだろう?」

考えることは様々ですが、
とにかく集められた意識と情報によって、
可能性は高まります
その結果現実が変わってしまう
言葉はバカにならないのです

 


人を変える方法

で人を変える方法ですが
「なってほしい姿を言う」です

例えば
誰かが積極的に手伝ってくれるのを望むなら
手伝ってくれた時のことを、
「嬉しかった」と伝えるのです
たとえそれが100回頼んだ中での1回でも、
繰り返し伝えてみる

何回も伝えていると相手の意識は、
「手伝って喜ばれる自分」に向きます
時間はかかります
人によってかかる時間も違います
すぐに効果がでないこともあるでしょう

でも雫が石に穴をあけるように
徐々に変化は進んでいって、
ある日突然行動が変化します

 


打ち消しちゃう言葉は止めとこう

言葉で「なってほしい姿」に近づくように
「なってほしくない姿」を表す言葉は、
相手の変化を打ち消す方向に作用します

望む姿に近付かないことを責める言葉
「なんでやってくれないの」とか
「やっぱりダメね」とか
そんな言葉は、
相手を望まない姿につなぎ止めます

なってほしい姿があって、
そちらに進んで欲しいと思うなら
相手がそうなることを信じることが大切です
信じていれば、
打ち消す言葉は止められるでしょう?

打算や相手を利用しようとするこころだと、
打ち消す言葉を止めるのは難しいでしょう
相手を変えたいと思うなら、
相手をまず信じることが大切なのです

 


わたしの過去の経験

わたしは決め付けることで、
他人の可能性を閉ざしたことがあります
前の会社で働いていて、
下についた人の能力について
「君はここまでだな」と思ってしまった

こういう思いは言動に表れます
出来事からできない要素を拾い集めて、
そのことを注意するようになって
相手の意識も、
「できない自分」に向かうようになって
結局その人は、
わたしの考える線を越えられませんでした

反対の経験もあります
「君はできる」と信じて行動して、
周りに何を言われても信じた人がいました
その人はわたしの想像を超えて、
いろんなことが出来るようになりました

もちろんわたしの言葉だけが、
全てを決めたとは思いません
努力や挑戦の有無があったのは、
紛れもない事実だからです

でもわたしの信じるこころに、
違いがあったのも事実です
信じてもらっていたら、
努力や挑戦を応援する下地もあるでしょう?

 


まとめ:信じるこころがあれば

最初に簡単と書きましたが
これは相手を信じる前提があってのこと
利用しようとするこころが前提だと、
どこかでくじけちゃうでしょうねぇ

それでも人は可能性を持ちます
どんな人の中にも、
できる可能性とできない可能性の両方がある

それを花開かせることができるのは、
もちろん自分の選択によるんだけど
周りの人が力を貸すことも、
できないわけじゃない

人は変えられないけど、
変えることもできないわけじゃない
それじゃどんな言葉を相手にあげる?

そう思うのです

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ミジンコみたいに楽しく生きよう

大崎二人会で話してきた!

お友達の山田ともみさんと、
かわべゆういちさん主催の朝活で、
『大崎二人会』というものがあります。
月1回の開催で、
主催者2人がお話をすることもあれば、
ゲストがお話することもある
雰囲気はゆるいけど内容はかなり濃いめ
そんな会です

もう始まってから2年以上
ずっと参加者として関わってきたけど
とうとうお話する側に回ることになりました

 


人とミジンコのお話

わたしミジンコを飼っています
環境が合うと大発生して、
環境が崩れるとあっという間に姿を消す

自然界では、
天敵を感知して角を生やすような種類もいて
(『尖頭を持ったマギレミジンコにおけるフサカの補食に対する防御機構』
今井 眞木, 花里 孝幸
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jslim/68/0/68_0_216/_article/-char/ja/)
シンプルな命だけど、
ヤツらなりに懸命に生きてるのが好きで

今回はそこと絡めてお話しました
「ミジンコは小さいけど、
精いっぱい生きてます
それじゃ人間は?」

わたしが伝えたいのは、
「人はみんなダメなんかじゃない」ってこと
今まで伝えようとして、
上手くいかなかったことも含めて
内容を3つにまとめました

 


①自分で決めて選んで生きている

わたしたちはみんな、
自分の行動を選んで生きています
何かのせいで人生が左右されることは、
基本的にありません

他人の言動の意味を決めているのは自分で、
どう反応するかを決めているのも自分です
気分悪く過ごすか、
楽しくするかも自分で選べるのです

自分の人生をどうしたいか?
ここが見えていれば、
選ぶものも決まりますよね


②決めつけないこと

物事を分けて考えるのは便利なやり方です
把握や理解を簡単にして、
判断のスピードを上げられる
時は金なりの現代社会では、
大きなメリットと言えるでしょう

でも一歩間違うと、
狭い見方の決めつけになってしまいます
「正しい正しくない」
「良い悪い」
あたりで考えると分かりやすいでしょうか?

 

「お前はこうに違いない」って決めつけとか
自分が正しくあるために、
他人を悪いことにしちゃう人とか
見ることありませんか?


③みんな間違いじゃない

分けないことにこだわるあまり、
分けることを「いけない」とするなら
それは結局分けていることになります
本末転倒ですね

大切なのは引き出しを増やすことで、
「ダメ」とラベルを貼って、
選択肢を排除することじゃありません

どんな考え方も、
その人からすれば正しいものです
だから何も間違いじゃない

今は違うと思う考え方でも、
知れば考えの幅は広がります
そのためにも違う考えは引き出しにしまって
選択肢の1つとしておくこと
これは大切なのです

 


まとめ:ミジンコみたいに

このブログを読んで下さってる方なら、
どれも目にした内容かもしれませんね

必要なのは「何が正しいか」ではなく、
たくさんある正しさを知り、
その中から自分は何を選ぶか?ということ
自分が選んでそこに立っているという事実を
知っていること
わたしはそう思います

水に漂っているだけみたいに、
見えることもあるミジンコだけど
頭を尖らせたり泳ぎ回ったりして生きている

そんなミジンコみたいに、
楽しく生きるのもいいよね
そんなこと思う大崎二人会でした

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お仕事本格的に始まりました

お仕事スタート

ようやっとお仕事が始まりました
グループホームで暮らす、
知的障害のある方たちをお世話する仕事です

ご飯を作って作業所から帰るのを迎えて、
翌朝のご飯も作って食べてもらって、
作業所に出発するのを送り出す

あとはお掃除だったりお洗濯だったり
必要な部分は介助してあげたり
注意することはいろいろあるけど、
内容的には主婦みたいなお仕事です

 


力の抜きどころを知りたい

力んだ状態だと動きがぎこちなくなるように

お仕事も力の抜きどころを知らないと、
要らない苦労をするハメになります

必要なところに力を注ぐためにも
同じ時間働くなら、
余分な力はない方がいいのだと思います

余力は他に回せばいいのです
質を高めるのに当ててもいいし、
速度を上げるのに使ってもいい
目的は疲れることじゃありませんから

まだ今は、
モノの置き場所がよく分からなかったりして
要領がいいとは言えません
蹴つまづいてモノをひっくり返したり
ワケ分かんないこともしちゃいます

早いとこ要らない部分を削ぎ落として、
楽にまわせるようにしたいなと思います

 


ものは考えよう

ここで自分を、
「ダメだなぁ」と考えるのは簡単ですが
自分を下げたところで、
一文の徳にもなりゃしません

まあ不慣れなのは事実ですから、
それはその通りでいいでしょう
自分が気持ちよく考えるなら?
わたしは何がプラスされたかを数えます

要は昨日の自分からどんな一歩を進めたか?
同じレベルをキープできてたならそれもよし
下がったところがあるなら、
前できた理由も探せるってもんです

たとえ上手くいかないことがあっても
次につなげることが出来るなら、
それは失敗でも何でもない通過点です
慣れていく自分が感じられるなら、
悪くないでしょ?

 


まとめ:初心ってあったよね

まだお仕事始めたばかりの時って、
そう言えばこんなだったな
20年くらい前を振り返って思います

自分の「ありがとう」も増えて、
お仕事にもまっすぐ取り組めてて
本当に慣れてきた頃は気も緩んで、
ミスも出やすくなるから

この初心を忘れないようにして、
この道を進んでみよう
そんなこと思うのです

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趣味の話:UEFIのUbuntu、Arch Linux上へのPrimeOSのインストール

PrimeOS

しばらく前からAndroidベースPC用OSの、
『PrimeOS』というものを使っています
http://xgender-isao.hatenablog.com/entry/2019/09/19/235935

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もともとタッチスクリーン対応が前提だから
コピペで問題が出たりするんだけど
豊富なアプリやウィジェットが使えるのは、
なかなか便利です

『TED』とか『Quora』なんか好きかなー
まあPCである必要があるかと言われれば、
別にスマートフォンでも構わないんですが

わたしはあんまりやりませんが
AndroidのゲームをPCの画面で遊べるのは、
けっこうメリット大なのかもしれません

 


grubが扱いにくいのよね

PC版Androidを使っていて困るのは、
grubの触り方がよく分からないことです
grubってのはOSの起動を担当するソフト、
ブートローダーの一種です

PC版のAndroidx86もPrimeOSも、
起動にはgrubを使っています
多くのLinuxgrubを使っているので、
共存も可能なんですが

このgrub
ちょこちょこトラブルを起こすんですねー
何かの拍子で狂いが出てしまうと、
たちまち起動しなくなる

他のLinuxでは、
grubを設定する手段があります
わたしが使ってるArch LinuxXubuntuでは、
grub customizer』というものがあって
トラブルが起きても、
他のOS側から起こせたりするんですが

なんでかAndroid系OSは、
grub customizerが認識してくれないんです
起動しなくなっても、
他から起こすことができない

Androidでこれに相当するものは、
少なくともアプリでは存在しないみたい
知識があれば文字で行けるかもしれませんが
わたしにゃそこまではムリですし

で探していたら、
便利なやり方を紹介してるサイトに遭遇
試してみました

 


既存Linux上にインストール

ざっくり言うと. . . 
既存のLinuxのルート直下にフォルダを作成、
そこにAndroidやPrimeOSを配置
それからgrub customizerでエントリーを作成
最後に起動してインストール
そんな感じです

参考にしたのはココ
https://www.fosslicious.com/2018/12/how-to-install-primeos-in-ubuntu.html?m=1

1.ルート直下に『primeos』フォルダ作成
f:id:ichapy:20191110220159j:image
2.『primeos』フォルダ内に『data』フォルダ作成
3.PrimeOSのisoファイルを開き、以下のファイルを『primeos』フォルダにコピー
initrd.img
install.img
kernel
ramdisk.img
system.sfs

f:id:ichapy:20191110220429j:image
4.Grub Customizer→編集→新規
名前はprimeos
タイプはその他
シークエンスに以下を記入

insmod part_gpt
search --file --no-floppy --set=root /primeos/system.sfs
linux /primeos/kernel root=/dev/ram0 androidboot.selinux=permissive buildvariant=userdebug SRC=/primeos
initrd /primeos/initrd.img

f:id:ichapy:20191110221545j:image
「primeos」と書いてある部分は、
1で作成したフォルダ名を記入する
フォルダ名が「androidx86」なら、
記入するのも「androidx86」にするってこと

これで起動時の選択画面に、
primeosが出てくるようになります
f:id:ichapy:20191110221614j:image
あとは普通に起動してインストールしてやる
これだけです

 


まとめ:いろんなやり方があるよね

Virtualboxみたいな仮想マシンでも、
いいのかもしれませんが
どうも重たく感じたのでボツ

起動出来なくなったら、
フォーマットなしで再インストールでも、
別に構わないんですが

やっぱり同じgrubで扱えるのは便利です
この方法にしてから、
大きなトラブルには見舞われていません

デメリットがあるとすれば、
LinuxAndroidで、
ストレージに占めるデータ量が増える
そんなとこでしょうか?

まあこれも通過点で、
もっといい方法があるかもしれないし
もしかしたらAndroid以外のOSも、
起動できたりするのかしら?

ぼちぼち楽しんでいこう
そう思うのです

 

 

 

 

 

普通じゃなくてもいいじゃんね?

トランスジェンダーの生き方って?

あまり面識のない人とお話していて
久しぶりに「ニューハーフ」という言葉を、
聞く機会がありました

自分がどんなふうに生きているか
そんなお話をしていく中で、
「踊ったりするの?」って聞かれて
何のこっちゃと思ったら

どうもわたしが自由な時間で、
ニューハーフさんみたいに舞台に立ってると
そう考えたみたいで

ああ前のわたしみたいだなって思いました
15年くらい前にこの生き方を始めた頃
わたしも同じように考えていたからです

 


わたしは自分の普通を暮らしてます

わたし前は額縁屋さんの工房で、
今は知的障害のある人のグループホーム
人の困りごとを解決して生きてます
これがわたしの今の普通

たぶんその人は関心がなくて、
ステレオタイプなイメージで済ませてた

だからわたしがトランスジェンダーと聞いて
思い浮かんだ最初のイメージがニューハーフ
その人の中で性別を超えた人の普通は、
ニューハーフさんだったんでしょう

知らないことは仕方ないですから
話していったら、
「ああそうなのね」ってなりました

 


みんな自分の普通を生きている

それぞれの人が、
それぞれの普通を生きています

「普通」か「普通じゃない」か
これはある種の決め付けです
決め付けると、
型にはまった部分しか見えなくなります

舞台で歌ったり踊ったりする人の普通は、
わたしの普通とは違いますが
それは違うってだけで、
相手が「普通じゃない」わけじゃありません

「この人の普通はどんなだろ?」
こう考えると、
違いも楽しいものになるでしょう
みんな自分の普通を生きているのです

 


まとめ:普通じゃなくてもいいじゃんね

他人の普通に合わせて生きることが幸せなら
それは構いませんが
もし苦痛なら、
無理して誰かに合わせる必要はありません

自分の「普通」は、
自分の立っている場所にあります
それが他人の普通と違うのなら、
胸を張って「普通じゃない」人になればいい

わたしは最初、
自分の違いを「それでいい」と思えず
他人の目に嘲笑の影を探しては、
ビクビクしてましたが

今は何とも思いません
わたしはわたしだからです

幸せは結果
精いっぱいやった結果です
どんな生き方でも、
自分の普通を胸張って、
精いっぱい生きてれば幸せはある

そのためなら、
他人の「普通じゃない」人でも構わないよね
そう思うのです

 

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自己肯定感を上げるには⑰~ありがとうの多い環境を作ろう

自己肯定感を高めるために、
どんなことをするのがいいか?

前回は
「人を足し算で見ると楽、
引き算で見るのはしんどい」
というお話をしました
http://xgender-isao.hatenablog.com/entry/2019/10/02/000055

人に対し引き算の評価をしていると、
100点は必ず0点になります
足し算の評価なら、
0点もいつか100点を超えてゆきます

これは言葉だけのことじゃなくて、
実際の人の力にも影響のかあることです
自分なら、
どんな風に見られたら嬉しいでしょう?
そんなお話しでした

さて今回は前回の補足、
ありがとうの多い環境の力についてです

 


類は友を呼び

足し算引き算のブログでも書きましたが
似た人は知らず集まるものです

あんまり違う考え方だと、
ぶつかることが絶えなくなりますから
自然と関係は離れていきます
近い考え方の人は、
離れずに残り続けた人ですね

身近な人が近いタイプの人ってことは、
身近に流れる言葉にも同じことが言える
そういうことです

さてここで考えてみると面白いことですが
自分の周りには、
どんな言葉が流れているでしょうか?

 


責める言葉があるのなら

他人を責めるときは、
たいがい自分が同じことをやってるときです
片方だけってことはほとんどない
であるなら、
周りで誰かを責める言葉を聞いたなら、
そこには同質の応酬があるってことです

周りの言葉に責め言葉が多いとすれば
自分のあり方を見直すチャンスです
自分に同質のものがあって、
それが返っている可能性が高いからです

そこに自分が感情的になる部分があるなら、
ほぼ間違いないと思っていいでしょう

 


ありがとうが増えました

知的障害のある人たちに関わるようになって
わたしは「ありがとう」の機会が増えました
何かやってもらえることが、
当たり前じゃない環境だから
何をしてもらってもありがたいのです

今までは、
周りができて当たり前だって思ってた
それでできないと周りを責めていたんだけど
ずいぶん傲慢なお話ですし、
結局それは自分に返るんですよね

今のありがとうも、
わたしに返ってきています
気難しいと言われる人も、
普通に接してお手伝いしてくれる
みんなも楽しげで嬉しいなと思います

他人に向かうものと自分に向かうものは、
やっぱり底でつながっているのだと思います

 


まとめ:発したものが返ってくるから

自己肯定感を上げるために
自分の発する言葉を選ぶことは、
非常に大きな意味を持ちます

責めるような言葉がいけないとは言いません
強い調子で自分を守る必要がある場合も、
ないとは言えませんから

ただその場合も、
言葉の捉え方と表現の仕方で、
ずいぶん結果も変わるものです

嫌な言動には嫌な結果が、
嬉しい言動には嬉しい結果が返るのだから
自分がされて嫌なことはしない方がいいし、
言われて嫌なことも言わない方がいい

そんなのを意識するだけでも、
いろいろ変わってくよなぁ
そう思うのです

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伝える積み重ねを大切にしよう

伝えないことは見えない

自分は分かっていて言わないでいること
「言わなくても大丈夫だろ?」
って思っていること
周りは本当に大丈夫でしょうか?

伝えたことは見える
伝えないと決めたことは見えない
これはまあ分かりますよね

それじゃ「どちらでもいい」と判断して、
特に理由もなく伝えなかったことは?
答えは簡単
伝えられていないのだから見えません

人の内面は意外と見えていないのです
さて冒頭の質問ですが
本当に伝えなくて大丈夫でしょうか?

 


伝えられていないことの意味

伝えられていないことは本来無色です
伝える側からすれば、
さほど意味はないことが多いでしょう

これが伝えられる側から見たとき、
意味が変わることがあります
物事の意味を決めるのは受け取る側で、
沈黙にも意味は考えられるからです

2割が語られること
2割が語りたくないこと
残り6割が「どちらでもいいこと」とすると
この6割の意味付けで、
ずいぶん印象が変わることが分かります

お互いの関係性がよければ、
この6割は好意的に解釈されます
関係性が薄ければ中立的な意味でしょう
ここまではあまり問題もありませんが

何かしら行き違いがある場合、
これが問題になることがあります
天秤がより大きく傾く可能性がある
実際よりもずっと否定的に、
伝わることがあるということです

 


歯が痛かったこと

もうずいぶん前になりますが、
歯が痛くてしんどかったことがあります

前のお仕事は2人だけの部署でした
職人みたいなお仕事ですから、
物と話す方が得意な人が働いていました

痛くて注意も向かないわたし
やっと歯医者さんの予約をとって、
ホッとしてたった1人の同僚に話したら、

「あ、そうだったの?」

声の調子から、
安心したような様子が伝わってきました
わたし楽しい顔はしてなかったでしょう
わたしの不機嫌そうな態度の原因が分からず
ストレスだったのは間違いありません

わたしの様子が、
意味を否定的な方に傾かせていた
そんな経験でした

 


まとめ:伝えることも積み重ね

当人にとっては当たり前でも、
他人に頭の中は見えません

他愛もないお話は単なるムダ話じゃなくて、
互いの関係性をよくする積み重ねですから
伝えられるなら伝えるのって、
けっこう大切なことなのです

分かっているだろうなってことも、
どっちでもいいかな?ってことも

もちろん言わなくてもいいけど
どちらを選んでもいいなら、
伝えてみてもいいかもしれないね
そう思うのです

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