そのひとことは誰のため?

ひとこと言いたくなったら考えます
自分が正しいと思ってないか?
相手を信じているか?

正しさの押し付けは暴力と同じ
相手に出来ると信じるなら、
そのひとことは必要ないはず
そう思っています

 

ひとこと言わないと気が済まない
そんな人によく出会います
必要なことを言うのではなく、
「本人が言いたいだけ」のタイプ

正しいことを知る人が、
何も知らない人に教える
そんな構図は粗ばかり取り上げられて、
気分のいいものではありません

正解は人の数と同じ
言いたい人の正しさ
聞く人の正しさ
どちらも間違ってはいないから
押し付けられれば痛みを感じますね

 

こんな文脈では、
「言わなければ出来ないだろ」
「どうせ出来ないだろ」
そんな言い方もよく聞きます

人には可能性があるのに、
出来ないと決めつける
信じないことで、
相手の可能性を狭めているのに
そのことに気づいてもいない

相手に出来ることを信じず、
投げてしまうのは簡単です
可能性はそこで摘み取られて、
人は伸びなくなっちゃうけど

 

ひとこと言いたい人の気持ち悪さって、
ここにあると感じます
自分がいつでも正しくて、
相手は自分より劣る人
相手には出来るという可能性も、
全く信じていない

わたしは言われる側だけじゃなくて、
言う側に回ったこともあります
その頃の自分もやっぱり同じ
自分が正しくて、
誰も信じていませんでした

仕事を効率で回すことばかり考えて、
『この人はここが限界』と勝手に決めて
それ以上を信じなかったから、
その通りの現実が作られました
今思えば、
出るべくして出た結果でしょう

 

人は信じることで、
大きな力を生み出すことが出来ます
自分が出来ると思ってもいいし、
この人なら出来ると思ってもいい
信じてもらえた人の可能性は、
大きく広がります

自分の人生なんだから、
他人が何かしてあげることは出来ないけど
信じてあげることはいつでも出来ます
信じてあげるだけで、
その人の可能性を伸ばせるのなら

正しさを押し付けて、
自分のコピーを作るのではなく
相手の正しさも、
その人に出来ることも信じて

触れ合った人に何を残してあげるか?
考えていきたいと思うのです
f:id:ichapy:20180507071412j:image

 

こどもはどんどん大きくなるね

昨日のこと
高校時代からのお友達に会ってきました
忙しいのに休みの度に時間を作ってくれて、
帰る時の楽しみになってます

こどもこどもしてた娘さんたち3人も、
今ではすっかり大きくなって
短くはない時間を感じます

 

嬉しいのは、
この子たちが壁を持ってないこと
わたしの『男性らしくない感じ』も、
そのまま受け入れてくれてることです

とは言うものの
年齢が上がって深く考えるようになると、
興味の幅も広がるみたいで
「たけもとさん何で胸あるの?」
ストレートに聞かれて考えました
さてどー説明したものか

まっすぐ向き合ってくれる人に、
嘘はつきたくありません
そこには年齢も性別も関係ないけど、
話し方には気を付ける必要もあるでしょう

今回は今まで通りこんな感じで
「世の中いろんな人がいるんだよ。
胸はもちろんホンモノだよ。もっと大きくなるといいんだけどなー」

 

ずっとこのままでいいのかな?
ちょっと考えます
まっすぐ向き合い続ければ、
喜びも悲しみもそのまま表現し続ければ、
こどもたちは今のまま、
壁を作らず大きくなってくれるでしょう

こどもたちだって、
分からないはずはありません
メディアでもマイノリティは出てくるし、
学校でも教えられてるみたいだし

ただそれを超えて友達でもあるから
知りたいことに答えをあげることも、
先をゆく者の役目でしょう
子供は子供じゃなくて、
ちゃんと扱われるべき1人の人
いつか話さなきゃって考えてもいたのです

 

あんまり難しくもなく、
自分の感じることをまっすぐに
いくつかの悲しかったことや、
いっぱいの嬉しかったこと
次に会ったら話してみようかな

別れ際、
友達が言ってくれました
「遠くにいる親戚みたいなもんだから、
そのままでいいんじゃね?
こどもたちちゃんと分かってるよ。」

これからもいろんなことあるだろうけど
こんな人たちがいてくれるなら、
人生悪くないでしょう
まっすぐに生きて
そのままの自分を伝えていけばいい
伝え方は次までの宿題
そう思った1日でした
f:id:ichapy:20180505134703j:image

 

怖いものが怖くて何かいけないの?

怖いものは怖い
恐ろしさの存在を知らぬこと、
恐れる自分を知らぬことの方が、
よほど恐ろしいというもの

そんな自分を受け入れて、
それでも止まらず進んでゆくこと
そこが大切なんだって思います

 

目の前で事故が起きたのを見ました
自転車が軽自動車に巻き込まれた

運転者は全く気付かなかったみたいで、
窓から見て驚いてました
自転車の人がとっさに抜け出たから、
軽い打ち身程度で済んだけど
一歩間違えば命を失う状況で、
どちらも運が良かったと思います

 

死はいつもそこにある
改めてそう思いました

変化はいろんな顔でやってきて、
人生をあっけなく変えてゆきます
死もそのひとつで、

明日を迎えられる保証は誰にもありません

それは怖いことでもあるでしょう
でも恐れて何もせずにいても、
変化は必ずやってくる
わたしたちに出来るのは、
それでも前に進むことだけです

 

恐れるな!なんて言いません
いくら理想を語ったところで、
恐れても仕方ないと分かったところで、
怖いものは怖いですから

転べば痛いし、
事故は恐ろしい
消滅は考えたくもない
それが普通でしょう

大切なのはそこにある恐怖を知って、
それでもなお進む勇気を持つこと
恐れる自分も受け入れることです

怖いのは今が大切だからでしょう?
その何がいけないのかと思います
むしろ恐ろしいことの存在や、
恐れる自分を知らないことの方が、
よほどマズいと感じます

 

恐ろしいことは、
蓋を開けたら大したことないかもしれません
虎を恐れて動かずにいても、
正体は猫かもしれない
それは動かなければ分かりません

活発に動いてる人だって、
怖いのはそんなに変わらないと思います
特別な人の特別な行動じゃなくて、
怖いけど動いてる人がいて
そんな人が動いた分だけ結果を出している

そう思うようになって
ちょっとだけ動きやすくなりました
やっぱり怖いものは怖い
自分チキンだよなぁって思うけど笑

それでいいんだ
事故にあった人たちも命が無事で良かった
そんなことを思うのです


f:id:ichapy:20180504002619j:image

 

変えるのなら自分の手と足で

今を変えてくれるものを待っても、
永久にやってきません

舵輪は誰に預けるのでもなく、
自分で握るもの
そう思います

 

自分の人生を生きなきゃ
よくそう思います
自分が主人公の舞台で、
話はどこへ向かうのか
決めるのはいつでも自分だからです

わたし思い当たる節多いんだけど笑
人生から目を背けていると、
自分以外の何かに理由を求めたくなります
理由をよそに探している限り、
舞台は流されるままに進みます

答えを待ったり、
機会をうかがったり
他人と歩む筋書きもあるでしょう
自分以外の要素がからんでくる
それは普通にあることだけど

答えを待たずに動いちゃいけない?
待つと決めたのは誰?
何を好機と見る?
誰かと生きると決めるのは誰?
結局は全てその人が決めていることです

 

縁って面白いもので、
つながるものはつながって、
離れるものは離れていきます
宿命論的だなぁと思うけど、
40年生きてきて実感します

つながった縁も、
大切にし続ければ育ち、
大切にしなければ枯れてゆく
今の行動の積み重ねが、
その次の未来を作ります

結局のところ、
大切なもののために人は動きます
自分であれ他人であれ、
動かないのはそうする気がないだけ
動くだけの今を積み重ねて来なかった、
そういうことでしょう

 

何かが変えてくれるのを待ったとしても、
それは永久にやってきません

あまりにたくさんの物事に埋もれていると、
大切なことは見えにくくなります
自分に欠かせないものと、
そうではないものと

何かに縛られ、
人に決定される人生にしないために
理由は外に置かず、
自分で舵取りをしてゆく
大切だって思うのです


f:id:ichapy:20180502073451j:image

 

和服って楽しいよ!

縁がないと決めつけると、
可能性は目に入らなくなります

アンテナを張って、
転機を逃がさないこと
面白いと思ったら挑戦すること
それが新しい世界を見せてくれる
そう思います

 

お休み中のこと
着付けの先生をしているお友達に、
和服を着せてもらいました

わたし服が好きです
似合う服や好きな格好が分からない時は、
服装もボンヤリだったけど
「中性的な女性ファッション」
が好きと気付いて、
世界が明るくなりました

洋服と比べると、
和服は触れる機会が少ないです
伝統に彩られた世界はジェンダーも強くて、
わたしの好みが受け入れられることもなく
縁遠い世界のままでした

そんな風に流れて興味もなくしていた先月
坂戸の山田トモミさんのイベントで、
転機は訪れました

着付けの先生の鈴木千代子さん
http://kimonochiyo.webcrow.jp
トランス的な感覚に壁を感じないみたいで
「あ、もしかして」と思い、
いろいろ聞いてみました

「わたしの好みは真ん中へん
男装でも女装でも、
どちらに振ってもいいけど
どちらか一方じゃないんです
そんな着付けお願い出来ますか?」

答えはあっさり
「面白いわねー、もちろんだいじょうぶ!」
これはもー食い付かない手はない訳で笑
ゼヒにとお願いしたのでした

 

場所はふじみ野、
池袋から準急で30分くらいです
先生に都合のよい日を確認して、
東武東上線で行ってきましたよ

先生のチョイスと、
わたしの好みと
いろいろ試してたどり着いたのがこちら
f:id:ichapy:20180501071742j:image

写真だと分かりにくいけど、
女性的な袴の着方になってます

 

和服もいいものだなって思いました
柄+柄や、
鮮やかな色の配置
和服は小面積で品良く使われますね
自分が和服と出会ってどう感じるのか
見るもの聞くもの全て新鮮で、
驚きや楽しさがいっぱいです

料金は着付けを習う時と同じ扱いで、
2時間¥2000
プロの先生に着付けしてもらって、
これだけ華やかな服を楽しめて
すごく贅沢で豊かな時間でした

千代子先生、
着物を楽しく着てほしい一心で、
いろんな活動をしていらっしゃるとのこと
これから和服に触れる機会増えるかな?
そんなことを感じて、
ウキウキする気分の1日になりました
f:id:ichapy:20180501072055j:image

 

3年ぶりにヒゲ脱毛行ってきた

今日は久しぶりのヒゲ脱毛
前回から3年ぶり
トータルでは6回目です

前回までで、
一旦ヒゲはほとんどなくなりました
それでも休止している毛根はあるもので、
時間が経つと顔を出す
最近は夕方になるとざらつきを感じるし、
肌の下のヒゲもちょっと青く見えて
気持ち悪かったので、
やっと行けてホッとしました

トランス後に、
生活満足度を大きく上げてくれたこと
ヒゲ脱毛は間違いなく上位に入ります
男っぽさを消去する上で、
ヒゲの有無はすごく大きいのです

 

施術の日は、
様子が分かるようにヒゲ剃りなし
まばらにヒゲの生えた顔で、
銀座にあるクリニックへ

施術室に通されると、
まず最初に写真を撮られます
正面1枚
上向き1枚
左右斜め各1枚

次は施術台に横になり、
施術箇所にジェルを塗って照射スタート
ヒゲの濃いところでは、
「ジャッ」という身体の内側からの響きと、
タンパク質の焦げるにおい
そこそこの痛みがあります

痛みに関しては部位により差があります
レーザーは毛根に反応するので、
毛の濃いところは痛い
わたしは鼻の下から唇まわり
少し涙がにじみます笑

前回までは照射が終わると、
冷却パックを当てる時間があったけど
今回はなし
気が抜けるほど早く終わりました

 

照射された部位は肌が赤くなってヒリヒリ
強制的に日焼けさせたような感じです
肌は弱るから紫外線には要注意
代謝が上がるような行動もNGです
お酒飲んだり、
長くお風呂入ったりはあんまり良くない

あとなんだか今ものっすごく眠いです
今まで気にしたことなかったけど
もしかしたら肌へのダメージで、
身体が回復を欲してるのかも

ここまで書くのに、
普段の倍以上かかりました
起きてるのがしんどいので
少し早いけど、
今日はもう休みます
f:id:ichapy:20180430202458j:image

 

怒りは爆発力あるけど

怒りで反応していると、
間違いの許されない世界が生み出されます

大切な人にもそんな世界をあげたい?
わたしそんなの嫌だから
怒りに自分を明け渡さない
選ぶのは気持ちの共有
そう思います

 

怒りは勢いがあります
火山の噴火みたいにドカーンと爆発
周りの全てを焼き尽くして、
自分の形まで変えてしまうけど

噴火と同じで怒りは長く続きません
やがて溶岩が冷えて固まり、
ゴツゴツの荒れ地を残すように
トゲと焦土だけを残すでしょう

 

怒りの影には、
必ず他の気持ちが隠れています
悲しみや恐れが一般的でしょうか
「~だから許せない!」なんて言うのは、
「~してほしいのに何でしてくれないの?」
「なんでそんなことするの?」
でほとんど翻訳可能

これが分かってから、
自分は怒りに飲まれにくくなったし、
他人の気持ちにも気付けるようになりました

自分はこうしてほしかったんだな、
あの人はこうしてほしいのか
そこに絆創膏を当ててあげると、
たいがいみんなほっとした顔をします
きっと自分も、
そんな顔してるのかもしれません

 

ルサンチマンなんて言われるけど
中には怒りを原動力にする人もいます
これはこれで大きな力になる
爆発力ありますからね

でも痛みに触れた人は、
必ず自分を守ろうとします
生き残るための生物の本能
溶岩が環境の抵抗にあうように、
怒りにかられた行動は必ず壁に当たる

怒りの視点って、
相手を屈服させることしかありません
どちらかは必ず傷付く
それで関係が上手くいく?
絶対にありませんよね

ブログを書いていると、
そんな自分に気付くこともあります
そういう時の文章にはトゲがあって、
自分も他人も傷つきそうな感じがする

ああ、自分悲しかったんだな
そう気付いた時は、
視点をひっくり返して文章を書き直します

 

怒りの持続力はたいしたことありません
自分を怒りに明け渡さず、
こころをよーく見つめると、
そこには必ず答えがあります
相手は違う人で、
そこにもその人の答えがあるように
答えは必ずその人の中にある

ずっと繰り返しそう思っていると、
自然とそんなやり方が定着してくれます
金曜日のわたしを思い出すと、
不思議なくらい怒りはありませんでした
逆に相手に謝られ続けて困惑するくらい笑
みんな許されない世界に生きてるんだな
そう思います

 

自分が生きて死んでゆく中で
怒りにどれほどの価値があるでしょう?
そこに囚われて他人を裁いても、
虚しいだけって思います

自分が感じる気持ちはとっても大切
無視なんかしちゃダメだけど
それは自分で認めてあげて、
相手とはその事実を共有すればいい

許されない世界はしんどいです
そんなとこに住みたくないし、
大切な人たちだって同じ
これってみんな変わらないと思うんですよね

怒りは自分の主人ではなくて、
自分が怒りを理解する
なんでそんなに怒ってるの?
大切なのはそこなんだって、
そう思うのです
f:id:ichapy:20180429110947j:image