失敗したって大丈夫よ

お仕事だと、
ただ笑って済ますことは出来ないけど
 
挑戦すればするほど、
壁にぶつかることも増えます
自分にも、
他人にも
失敗を受け入れる余裕がほしい
そこで終わらなければ、
失敗は失敗ではなくなるのだから
 
そう思います
 
 
 
失敗を許さない世界に住んでる人
キツくないのかなって思います
実際表情も険しくて、
緊張が伝わってくる
 
何かあったらおしまい
その思いが現実を作っているから、
自分だけじゃなくて、
他人にも厳しくあたります
 
上手くいかないことなんていっぱいあるし、
挑戦し続ければ壁に当たることも増える
その全てに初見ノーミスクリア?
自分にそれを求めるのは構わないけど、
他人に求めるのは酷というもの
 
 
 
もちろん、
失敗しないに越したことはないですよね
誰だって最善を尽くすのは大切です
許された条件の中で、
自分に出来る最高を目指す
そこを守れば平均は上がるし、
自ずと失敗も減ってゆく
 
許容範囲が狭い事柄には、
経験の範囲で、
調べられる範囲で、
何重にも予防線を張る
ここでも最善を尽くすのです
 
 
 
それでも起きてしまう失敗. . .
これはもう仕方ないと思うのですよ
どんなに確率を絞り込んだところで、
ゼロにはできないのだから
 
やめてしまわなければ、
失敗は失敗になりません
それは過程の1つ
上手く行かない要因が分かったのだから、
改善すればいいだけのことです
 
上手くいかない出来事
それは変わらず起きるのです
それを失敗にするか、
過程にするか
 
振り返ったときに見える軌跡
それが全ての意味を決めるのだと思います
 

自分らしさを感じられるのって?

音楽や絵画
服装やアクセサリー
旅行や食べ歩き
勉強かもしれない
 
時と共に変わっても、
変わらなくても
何か自分を実感できることを持つ
「自分らしさ」を感じられる部分って、
すごく大切なのです
 
 
 
今年のはじめ頃から記録開始した体重管理
こんな感じになりました
 
f:id:ichapy:20170806200414j:image
2/8 68kg
8/6 61.6kg
目標体重は63kgでした
1日の摂取カロリー目標1500kcal
 
カロリー管理はけっこうザックリで、
少しオーバーしてもオッケー
61.6kgはお腹になんにも入ってない時の数値
いっぱい食べると64kg程度まで急上昇
 
運動は片道25分の徒歩通勤時間くらい
相変わらず特別に走ったりはしていません
 
人は筋肉で体温を作ります
カロリーを消費するのは筋肉のお仕事
なのでダイエットするときは、
筋肉を落とさないのは基本です
今のわたしは筋肉落ちてそう
リバウンドには気をつける必要ありかな
 
 
 
わたし服が好きです
10年前のお気に入りが自由に使えるって、
嬉しいもんですね
72kgのときには身体の厚みが出ちゃって、
パンツもシャツも前が閉まらない状態でしたから
 
いつでも痩せられるって再確認できたから、
食べるときにリミット考えないで済むのも収穫です

f:id:ichapy:20170806200637j:image
 
好きな自分を表現できるのって、
気持ちのいいものです
自分が楽しくいられることは、
いちばん輝く瞬間を作ってくれますから
 
毎日仕事や勉強に追われてると、
つい後回しにしがちだけど
 
自分が輝く瞬間
必ず持ってほしいなって、
そう思うのです
 
 

飛び立つ前にしておきたいこと

狭い場所に自分を縛って、
視野を狭めないようにする
人と自分のそのままを認める
そこにいる間は、
プロとして決して仕事の手を抜かない
 
それが大切なのだと、
そう思います
 
 
 
ひとつところしか居場所がない
 
そう思う人は、
必死にそこを守ろうとします
居場所がなくなるのが恐い
自分が変わる余地もない
だから周りを変えようとする
 
余裕のなさを押し付けられる周りは、
たまったものではありません
外からの力で人は変わらない
何かを変えたいなら、
自分が変わるのがいちばん
でもそれは叶わないと思ってるから、
他人を踏みつける
堂々巡りです
 
ひとつところを居場所とすれば、
生活は安定するかもしれない
でもこれからの社会でずっと安泰な場所、
あるんでしょうか?
 
環境への対応力を失うことは、
リスクでしかないでしょう
だからわたしたちに求められるのは、
周囲を変えるために必死になることではない
そう思います
 
 
 
プロの仕事に徹することも、
大切なことでしょう
付け入る隙を与えないために、
一切手を抜かないこと
 
その場所にしがみつく人は、
抜け出していく人にも噛み付きます
自分が出来ないことをする人に嫉妬して、
残る自分の価値を上げるために、
出て行く人の価値を下げようとする
 
プロに徹していれば、
この時のダメージを最小限に抑えられます
噛みつきたい人は、
何をしても噛みつくのです
関わるだけ無意味だから、
させておけばいい
 
幸いにもそんな人がいないなら?
それは笑って選択が出来ますね
プロとして求められたことに応えて、
お互いの未来へ進んでいけばいい
 
 
 
飛び立つことになっても、
ならなくても
誰に見せても恥ずかしくない仕事をする
 
自分を縛らず、
視野を広く保つ
周りのそのままを認める
 
そんなことが大切だなって、
そう思うのです
 

苦しみに自分を縛りつける必要はない

あなたを苦痛に縛り付けているのは、
他ならぬ自分自身です
人を縛ることは、
本当は誰にも出来ないのだから
 
選択肢はちゃんとある
人はいつでも自由になれる
 
それだけは、
忘れないでほしいのです
 
 
 
苦しいことがあったとき
その状況が終わらないと考えると、
苦痛は耐え難くなります
でも少し大きな視点で見ると、
全く変化しない状況は少ないもの
 
人を縛る最も大きな力は、
自分で作り出したこころの鎖なのです
行き詰まった状況は、
ほとんど思い込みに過ぎない
こころが力を与えることで、
鎖は維持されています
 
 
 
状況は変えられるのです
一歩動けば、
動いた分だけ景色も変わる
感じる苦痛は景色の一部
嫌なら動けばいいのです
 
あまり追い込まれ過ぎると、
逃げ道は見えなくなります
逃げ道を自ら断ってゆく過程で、
何も見えなくなってしまう
あったはずの選択肢は目に入らず、
絶望してしまう
 
そんな風になる前に
選択肢があることを思い出しましょう
 
自分を縛らなくていい
逃げ道はいっぱいあって、
どれを選んでもいい
それを知るだけでも、
すごく気持ちは楽になる
 
そこに鎖はありません
自由に、
歩き出してみませんか

f:id:ichapy:20170803202443j:image

こころの抜けた世界には住みたくない

相手を一方的に裁いても、
そこには何も残りません
こころを無視すれば、
何も生まれなくなる
 
視点を高く持てば、
人を叩く無意味さに気付けるもの
どんな世界に住みたいのか?
どこにたどり着きたいのか?
 
それは忘れてはならない
そう思います
 
 
 
先に結論があって、
一方的に話しをされる
例え何か話しても、
実るものがない
裁かれるお前が黙って聞くのは当たり前?
そりゃ話になるわけがない
 
相手にこころがあることを無視すると、
こういうことが起こります
こころのない人はモノと同じ
モノに後ろめたさを覚える人はいないし、
反論を封じるためにモノにするところもある
 
でも結果は悲しい
相手をモノにすれば、
自分もモノにされる
お互いで強化してゆくから、
一度入ると抜け出せなくなる
 
輪に入るか、
脱するか
最初に選ぶことはできるけど
 
 
 
こころを無視されるのはつらいものです
それをする人は、
何度でも繰り返すから
耐える人はいつまでも耐えなきゃいけない
 
どこまで許せば、
気付いてくれるのでしょう?
相手のこころを無視して、
いつまで許してもらえると?
 
 
 
失くしてから気付くのでは、
遅いと思うのです
 
縁は移り変わるものだから、
役目が終わったのかもしれないけど
そうなってしまうのは、
やっぱり悲しい
 
世界は自分が作るものです
投げかけた言葉や行動が環境を作る
こういう人の世界って、
どんなものなのか
わたしには分からないけど
 
こころの抜けた世界には住みたくないな
わたしはそう思うのです

f:id:ichapy:20170803065548j:image
 

自分の輪郭をちゃんと意識しよう

自分を生きていれば、
他人との間に境界線がひけるようになります
境界線のないことは、
愛情でも信頼でもない、
ただの依存
 
自分が自分であるように、
他人は他人
ここが守れていれば、
支配することも、
自分を明け渡すこともありません
 
自他の輪郭を意識すること、
とっても大切なのです
 
 
 
人はみんな、
それぞれの正しさを生きています
何かが間違いである必要はなくて、
みんな正しい
自分を間違っていると考える必要もない
わたしはそれでいいと思ってます
 
でも困っちゃう人もいるんですよね
それ一色になって、
何も見えなくなる人
他人の価値観を間違いにしてしまう人
 
そういう人は、
人生を明け渡していて、
自分の現実を生きていない
だから他人を支配して、
自分の不在を埋めようとする
 
 
 
誰にも支配されるいわれなんて、
ありゃしません
環境はその人の言動で作られていくから、
そんな人はいずれ自滅する
だから一番いいのは放置することだけど
 
自分を見失ってる人、
価値観の不確かな人は、
こういう人に惑わされやすいみたい
与えられるものに依存して、
簡単にコントロールされてしまうから
 
支配して自分を満たそうとする人と、
支配されて安心したい人
与える側と与えられる側の共依存
 
ここにお金がからめば、
現実的な被害が出てしまう
過ぎた依存は毒でしかなくて、
親子なら価値観が歪んでしまう
これはやっぱりマズいと思うのです
 
 
 
自分と他人は違います
誰かを支配することに自分を見いだす
安心がほしくて、
他人との境界線を取り払ってしまう
自分を明け渡してしまう
これは愛情でもなければ、
信頼でもない
ただの依存です
 
決断を自分で下して、
人生を自分の選択で生きているなら、
現実はどんなものでも構わないのです
借り物の人生なんて、
わたしはイヤ
一度しかない大切な命を
他人任せなんかにはしたくない
 
自分を大切にして、
身近な人も大切にするために
自分の輪郭を意識することは、
大切なのだと思います
 

誰も恐怖とは戦ってくれない

誰のこころの中にも、
恐怖は存在します
安らぎを奪うものへの恐れ
でも実際のところ、
その恐怖とみあうほど恐ろしいものは、
ほとんどありません
 
恐怖の大半は、
自分のこころが作り出しています
それを打ち破ることが出来るのも、
自分だけです
 
 
 
安らぎを脅かすものに、
人は恐れを感じます
今あるものを守ろうとして、
それぞれのやり方で反応する
 
かみついてみたり、
逃げ出してみたり
人も動物も、
原始的な恐れは変わらない
人はいろんな表現をするけど、
根底は変わらないのです
 
漠とした不安と違って、
恐怖には対象があります
恐れを恐れと認識できるなら、
対象への向き合い方を決めればいい
 
恐れが別のかたちをとっているなら、
まずその意味を知らないといけません
代表的なのは怒りや憎しみ
自分がそんな感情を抱えているなら、
そこに恐れがあるか、
見極めなくてはなりません
 
 
 
自分の中に恐れを見いだしたら
決めればいいのです
恐れから逃げるか
立ち向かうか
 
逃げきれるのなら、
逃走もよい選択肢かもしれません
あまりに植え付けられた恐怖が大きく、
こちらが壊れてしまうのなら、
逃走したって構わない
 
逃げ切れない場合は?
多くのこころの問題は、
逃げることは叶いません
いつか立ち向かわないといけなくなる
 
 
 
恐怖は対象を過大評価させて、
より恐ろしく見せることがあります
虎は虎ではなく、
猫かもしれないのです
 
恐怖に立ち向かえるのは、
自分だけです
誰も代わりにはなってくれません
 
逃げるか
立ち向かうか
それを決めるのも
 
自分だけなのです
 
 
f:id:ichapy:20170801073024j:image