正しさに囚われると正しくなくなる

ワザとぶつかって行こうとする人

街で歩いているとたまに、
ワザとぶつかって行こうとする人を見ます

ターゲットはたいがい前を見ていない人
スマートフォンの操作や、
何かに気を取られている人

すすっと進路が変わってぶつかるので、
離れたところから見ているとよく分かります

人が集まるといろんなことが起こります
時には人を殺しちゃう輩まで出たりする
それなのに不用心過ぎない?
前を見ずに歩く人を見ると思いますが

ぶつかって行く方もたいがいだよな
そう思います

 


正しさは武器にも盾にならない

正しさは振りかざすものじゃない
わたしはそう思います

「正しさ」みたいなものに囚われると、
相手のこころは見えなくなります
そうなると物と同じ
何をしてもいい相手になってしまう

自分が正しいから相手を罰してもいい?

相手は人ですから、
「何をしてもいい」はありませんよね
みんな感情のある人
悲しみや痛みは自分と同じです

自分がされて悲しいことは、
基本的に人にはしない方がいいでしょう
正しさは武器にならないということです

正しさの矛盾もあります

自分を正しいとした時点で、
自分以外は正しくなくなりますが

正しさは人の数だけあるから、
自分を正しいとした時点で、
その正しさも崩れてしまいます
正しさは盾にするものでもないのです

 


向き合うべきは自分のこころ

自分はなぜ正しさに囚われるのか
そこに目を向ける方がいいと思うのです

他人に向かう怒りは、
こころの奥深く沈めた感情が表れたもの
自分がないがしろにされたと感じたり、
大切にされていないと感じたり
たいがいはそんな憤りの発露です

はっきり言って八つ当たり
向けられる方はいい迷惑ですし、
端から見てもおかしいとしか映らない

自分のこころと向き合うことを避けて、
それを他人にぶつける
誰もそんなのを見て、
正しい姿だとは思わないでしょう

正しさを振りかざしたくなったら、
向き合うべきは自分のこころなのです

 


まとめ:その時はその時限りだから

人との出会いはとてつもない偶然の積み重ね
奇跡と言ってもいいものです
その奇跡の末に出会った人に、
何をあげるか?

自分の人生に痛みと悲しみを残す人が、
嬉しくないように
わざわざぶつかって、
痛みと悲しみを残さなくてもよくない?

そう思うのです

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