まず身近な人を

人を癒やすのは肩書きじゃない
そんなことを教わって分かりました

身近な人をほうりすてて、
遠くにばかり目を向けても意味がない
まず身近な人から実践していこう
そう思います

 


体調不良の数日

体調崩して寝ていました
身体が冷えたみたいで
熱が出てお腹にきちゃってて

調子良くないのに調べものなんてしてたから
気が付いたらなんだかフラフラ
マズいなって思って、
身体を休めることに専念
ブログも思い切ってお休みしました

前のブログで書いたこと
自分の進む道のことですが
寝ながら考えて答えを出しました
わたしは今までと同じ道を進む
たどり着く先が同じだって気付いたからです

 


坊さんになろうか迷った

ここしばらく、
出家して坊さんになることを考えてました

わたしは人の生き死にに関心が強くて、
生きづらく感じる人を助けたいと思ってます
話を聴いてあげて、
安心してもらえると嬉しい

それでこういうブログを書いたり、
傾聴を習ったりしてました
フランクルの本にひかれたのも、
そんな自分がいるからですが

この方向で進んでいくと、
行く先々でお坊さんの存在を意識します
わたしのやりたいことは、
宗教とかなり重なってる

考えてみれば、
物に対する執着
人に対する執着
ずいぶん少なくなりました

棺桶に持ちこみたい物なんてほとんどないし
人を愛することも、
相手のそのままがいいと思うようになると、
そばにいる必要性も薄くなります
幸せでいてくれればそれでいいからです

今まで考えもしなかったけど
悪くないかな?
それじゃ現実になりたいかと言えば. . .
引っかかるものもありました

 


信心への抵抗とわたしの執着

わたしかなり理性に傾いてて
何かを一心に信じるのが難しいとこがある
30になる前、
結婚を考えてた人が信心をしてて
なんだか信じきれなかった自分がいました
今少しは変わったと思うけど、
やっぱりうーんと思う自分もいます

けっこう笑っちゃいましたが
髪の毛に執着がある自分にも気付きました
子供の頃から、
髪の毛を短くしろって言われるの嫌でした
今髪を長くしていられることは、
わたしのこころの安定に一役買っています

身体が女性になってれば、
髪の毛切らずにすむけど
わたしはそのままってわけにはいきません

それでも気持ちを決めて飛び込んだら?
そう考えて悩んだのでした

 


頼れる人の言葉を聴いて

頼れる人に相談してみました
その方はわたしの先を歩む人
なのでわたしの悩みも分かってくれます

肩書きとしての僧侶
生き方としての僧侶
その人は、
この違いについて話してくれました

僧侶になったとしても、
それはただの出発点
肩書きがひとつ増えただけのことです
人を癒やす実践を生きることは、
肩書きではありません
生き方としての僧侶は、
そんな実践を生きることみたい

これ聴いて目が覚めました
肩書きが増えたって、
実践しなけりゃ意味がない
自分が信じきれないものを、
他人に届けることも出来るはずがない

何より身近な人を振り捨てて、
遠くの人を救ったとして
そこに意味はあるのか?
本末転倒ですよね

 


まとめ:まず身近な人だよね

肩書きがどんなものでも、
人を癒やす実践を重ねることは出来ます
行き着く先が同じなら、
身近を大切にするところから始めればいい

どんな仕事でも、
どんな生き方でも、
幸せは必ずある
だから大丈夫だよ

わたしが伝えたいことはここにあるから
そんな実践を諦めずに
まず身近な人から

そう思うのです

f:id:ichapy:20190427151149j:image